Schroeder(2008)第1章「表出主義を概観する」Being for

Being For: Evaluating the Semantic Program of Expressivism

Being For: Evaluating the Semantic Program of Expressivism

  1. イントロダクション←いまココ
  2. 表出
  3. 否定問題
  4. その解決法
  5. 合成と論理
  6. 述語と量化子
  7. 記述的言語と信念
  8. 二股態度の意味論
  9. 真理条件を割り当てる
  10. 代替案のアプローチ
  11. 非記述主義的意味論
  12. 表出主義の制限とコスト

まえがき

  • 反実在論者たちは、単にその形態の自然言語の意味論を発展させることに失敗してきた。もしくは、彼らがそれを望みたいと思うときに発達させられるという根拠を提供することでさえも、失敗してきた。(Williamson)」
  • この本は、表出主義によって私たちが意味論の重要な課題を再考させる方法についてのものである。そのプロジェクトは、表出主義の非常にミニマルな構想から始め、とても簡潔な一連の問題を解決するために何が必要となるかを見ながら、言語哲学におけるさらなるコミットメントを引き出していく。
  • 私がこれをするのは、表出主義を擁護するためというよりも、そのコストを明らかにするためである。
  • 表出主義が解決できるものは自然言語のたった一部であるが、これらの問題を説く際に、非常に大きなコストを受容することを必要とする。
  • この本の論証は、表出主義が偽であるというa Master Argumentを構成するだろう。
  • 表出主義者はいまだ「not」の意味のわずかに満足の行く取り扱いでさえあたえていない。
    • というのは、原始的な規範的文がそれらのnegationsとinconsistentであると説明した表出主義の説明は未だ提出されていないからである。

1. イントロダクション

1.1 表出主義、何か

  • メタ倫理学における非認知主義は、もともとは道徳の言語についてのものだった。
  • 彼らによれば、道徳の言語は日常の記述的な言語はかなりことなったものである。
    • 道徳的な文は真や偽ではなく、それらは現実をrepresentしない。
    • それらは事実についての主張をなすために使われない。
    • それらは世界に一致せず、信念を表すのでもない。
  • それゆえ、情動主義者のAyer(1936)やStevenson(1944, 1963)また指令主義者のHare(1952)が最も重要な道徳の言語についての見方だった。
  • しかし、現在主要な非認知主義者の見方である表出主義は、第一に道徳的思考についての見方である。
    • 表出主義者によれば、道徳の言語と記述的言語の唯一の違いは、それが道徳的思考と記述的思考との違いからもたらされる。
  • 表出主義者によれば、道徳の言語を理解する方法は、道徳的文が、非認知主義的で、欲求的(desire-like)な心的状態とに関わる。
    • その方法は、日常の記述的な文が日常的な信念に関わる方法と同様である。--それらはexpressするのである。
    • つまり、彼らは初期の非認知主義者とは異なり、言語の違いではなく思考の違いに注目する。
  • 非認知主義者が有用であると思われてきた利点はいくつかある。
    1. 動機的な問題の解決という利点。
    2. 表出主義は、過去の発話行為重視の理論とは異なり、道徳的思考の性質についてのつながりを説明する。
    3. 表出主義は、日常の主観主義とミニマルな意味で異なる。(2.1で詳説)
    4. 道徳の言語は確かに日常の記述的な言語のように確かに振る舞う。真や偽であると思われているし、問いとして尋ねることも可能。<最大の理由>
    5. 非認知主義にとっての埋め込み問題(the embedding problem)は単にmodus ponensの妥当性についての問題ではなく、全ての論理についての問題である。
  • 記述的言語と道徳の言語の働きが何らかの仕方で深く異なる初期の非認知主義者らの説は、ものすごく真でありそうにない。
  • 一方で、表出主義は他の非認知主義者らの見方とは異なり、道徳の言語が記述的言語と全く同じ方法で動くと述べる。こちらの方が理想的に見える。

1.2 表出主義の現在の関心

  • 20世紀の中盤に主要になったあと1970年代と80年代を通して他の立場の擁護可能性が発見され、また、非認知主義にとっての埋め込み問題の手に負えなさを心配されたので、非認知主義は相対的にあまり人気のない立場となった。
  • しかしその後、Simon BlackburnとAllan Gibbardが複合文の意味の表出主義的説明を発展させた。
  • 彼らを見て、多くの哲学者は埋め込み問題がそれほど深遠な問題ではないとみなし、非認知主義は表出主義の形態において、尊敬を再獲得した。
  • 他の哲学の領域においても、R. Brandomのような表出主義の支持者が続くことになる。
  • しかし、BlackburnとGibbardはしばしば文献の中で、埋め込み問題を解決したとさえ言われるが、実際にはほとんど進歩は起きていないのである。

1.3 際立った諸問題

  1. 表出主義はいくつかの単純な問題でさえ全く答えを与えていない。
    • 例えば、表出とは何かについても答えが出ていない。
    • Gibbardは1990年に一度提出したが2003年に引き下げた。
    • しかし、第二章で私が指摘するように、Gibbardが表出と考えるものには、彼の表出主義とincompatibleなexpressionが必要である。
  2. 表出主義者は、「殺人は間違っている」と「殺人は間違っていない」がなぜinconsistentであるかについての満足の行く説明を与えられていない。
    • こうした「否定」問題は第三章で詳述。
    • 全ての現存する表出主義者のこの問題の取り扱いは、ある仮説をあるがままとして受け取っている。その仮説とは、異なる、論理的に関係しない態度のようなものの無限の階層があるというもので、しかしながら、そうした態度のようなものは、一貫と不一貫にせよ、Gibbard(2003)における「一致」と「不一致」にせよ、素朴な関係を産み出すよう神秘的に仮定されている。
  3. たとえもし「殺人は間違っている」と「殺人は間違っていない」の不一致をGibbardが説明できたとしても、彼は決して、なぜそれらが論理的に不一致なのかを説明しようと試みていない。
    • 彼は規範的な言語を用いて推論を行うのがどのように可能となるかの説明は提供しているが、彼は決してその言語がどのようにして厳しく構成された論理の対象となるかの説明を提供していない。
    • Gibbardが「芝は緑である」と「芝は緑でない」が不一致であると規定する意味で、彼はまた「Winnebago湖は水で満ちている」と「Winnebago湖はH20で満ちていない」の二つが不一致であると規定する。
    • しかし、これらの後半の二つの文は形而上学的な不一致性である。それらが不一致であることを知るためには、私たちは「水」と「H20」によって何が割り当てられているかを知らなければならない。
    • しかし、どのような論理的不一致性の説明も非論理的な用語の解釈とは無関係でなければならない。
  4. ちょうど非認知主義的見方が論理的な不一致性の十分な説明を提供していないのと同様に、何者も、「真理条件」的な接続詞によって構成された種類の文の説明を行っていない。
  5. 私の見方で最も決定的なのが、過去20年間に提出された表出主義の見解において、複合文によって表現される精神状態が何かを説明したものはいない。
    • 彼らが説明したのはただ、もし表出主義が機能したなら、これらの精神状態が持たなければならない性質の特徴付けでしかない。
    • 明らかに、「殺人は誤りであるか盗みは誤りである」によって表現される精神状態がなにかについての説明は、それがどの性質を持つかを予測しなければならない。
    • それはまるで、実際にその精神状態の説明を行い、それらがこれらの規準を満たすことを見せる代わりに、この精神状態の表出主義的な説明が満たせねばならない規準のリストを提出している。
    • BlackburnもGibbardもこうした予測力を欠いている。
  6. 複合文によって説明される精神状態についての、構成的な説明を表出主義が提供していないのは特に顕著な点である。だから、完全な表出主義者の見解は、複合文によって説明される構成的な説明を提供できなければならないだろう。
  7. 初期のBlackburnの高階の態度説は構成的な説明を与えていたが、致命的な問題がある。

1.4 楽観主義へのライセンス

  • こうした問いへの答えを提供する中で、表出主義はしばしば、彼らがそれらの問いに答えられるだろうという楽観主義へのライセンスの根拠を私たちに提供してきた。
  • 例えば、Gibbard(2003)では、彼は表出が何を意味するのかの説明抜きに、何らかの表出主義が訴えることのできる論証があるはずだと述べている。 * それは楽観主義へのライセンスを提供しているに過ぎない。
  • 同様に、否定を説明できる何らかの基盤があるという楽観主義へのライセンスも主張されてきた。
    • Hare(1952)やSmart(1984)によれば、「ドアを開けろ」と「ドアを開けるな」は矛盾する命令である。
    • 命令は事実の日常的なassertionではないが、命令法をnegationの主体として理解することには一般的な問題はない。
    • 否定された命令(negated commads)は、否定された直接法の文と同種の意味論的性質を持つように見える--それらはある適切な意味において、否定されない片方と不一致である。そして、HareとSmartが示唆するように、私たちは命令に対してこの作業の説明において、みな同意するに違いないと言うのである。
    • そして、もしそれが命令法に対して与えられるのなら、彼らは主張したように、そうした説明が規範的な文に対しても与られうると主張することはもっともらしい、と。
  • 同様に、「ドアを閉めなさい また 窓を開けなさい」のような連言の命令法を与えることは可能である。
    • そして、これらの命令法は連言のように振る舞う。
    • たとえば、この命令法は、「ドアを閉めるな」と「窓を開けるな」のそれぞれとinconsistentである。
    • だから、表出主義が主張したように、命令法についても、連言が意味をなすことは可能で、そしてそれは、「規範的な文においてもまた連言が意味をなすことは可能である」という「楽観主義へのライセンス」を私たちに与えるのである、と。
  • 少なくとも、否定、連言、選言、量化子についてはこれは全てうまくいくことを見るのは大切である。しかし、これらの場合によって提供される楽観主義のためのライセンスの基盤があまり広がらないことを理解するのは、より注意を払う必要がある。
    • たとえば、命令法と直接法の文の間に、実際に連言のように機能する「and」を用いて、連言を形作ることは扱いにくい。「ドアを閉めなさい そして わたしはあなたにお金を払う」のような「提供」文は、もちろん、完璧に意味上の問題はないが、それらは、連言のように働かない。
    • なぜなら、これが「わたしは君に報酬を払う」にコミットしていない、という人のためである。これは、こうした「提供」文は本当は「連言」であるというよりもむしろ条件文であるという証拠である。
    • 「しかし」の使用は、私たちにほとんどマシなものを許さない。「ここは凍える。しかし、ドアを開け放しにしなさい」は、直接法-命令法の連言を許可するが、「ここは凍える。そして、ドアを開け放しにしなさい」はOKに見えないので、何らかの理由のために、「しかし」という対照が必要であるように見える。
    • 規範的な文と記述的な文は無差別に論理的な結合子の全てによって結び付けられうる。しかし、命令違法を見ても、命令法と直接法がそのように結合するのは明らかではない。さらに、結果的な文は期待された論理的性質の全てを持たねばならないということも明らかではない。
  • それゆえ、楽観主義へのライセンスは全くクリアではなく期待を持てるものではない。

    1.5 この本のプロジェクト

  • 私は特に1.3で提示された問題を解くために必要な表出主義の見解を展開しよう。
  • 第2章では、私は表出関係がどういうものかを明らかにする。
  • 第3章では、私は表出主義者が否定について重要で未解決の問題をなぜ持つかを見せよう。
  • 第4章では、表出主義者のそうした見方の解決法を提示しよう。
  • 私が提供する解決策は、弱い想定に訴えかけることによって、これまでの説明よりも多くを説明するだろう。
  • 真に合成的な表出主義者の文のどんな否定が私のもののように見えるという、一般的な論証をまた私は提示する。
  • 第5章では、私は私の否定問題の解決法がどのように他の真理条件的な説持続しの取り扱いを生成するかを示す。
  • 第6章では、私たちのおもちゃのような言語は、より現実的でその扱いもより厳密になる。
  • 第7章の初めにおいて、記述的・規範的文の説明を同時に行うにはひとつの方法しかないこと、さらなる非認知的態度の観点から信念の表出主義者の分析にこれが行うこと、を主張する。
  • この段階において、これは表出主義の帰謬法に値するという結論も可能。
  • だから、もし第6章の意味論が、述語計算の表出主義的とともに純粋に表出主義的な言語を許可し、さらにそれでも私たちが規範的・記述的両部分を持つ複合文のある言語のある言語を許可しようとするときにそのプロジェクトが失敗するのなら、それは私たちの楽観主義のための基盤に適合するかもしれない。
  • しかし、私が第6章で示すのは、仮にこれができたとしたらどんなものか、を示すに留まる。
  • 第7章では、私は非認知主義的態度の観点から信念の分析を動機づけ、そのメリットを説明する。
  • 第8章では、私は規範的・記述的述語の両方を許可する意味論的フレームワークを産み出すために、第六章の意味論的説明を産み出す方法を見せよう。
  • 歓迎すべきでない特徴が残る。その特徴とは、複雑な記述的文は、一般的に、一致する複雑で記述的な内容を含む信念を表出するようには判明しないというものである。これは、「全ての独身者は結婚していない」という文が全ての独身者が結婚していないという信念を表すという表出主義者のいつもの主張を、侵害してしまうためだけでない。
  • これは大きな問題である。なぜなら、それはある表出主義者の意味論が真理条件を日常的な記述的文にどのように当てはめるかをパズルにしてしまうからである。
  • 第9章では、この問題を解く全く見込みのない方法を探求してみよう。
  • 第10章では、私はもう一つの見込みのない方法を探求してみよう。
  • 第11章では、この見解の有益性を確認するため、結果として生じる見解を生成するためには人はどのような試行が可能かを考慮してみよう。
  • 第12章では、私たちが得た進歩と残った問題とをまとめよう。
  • 私がもたらす教訓は非常に単純である:述語計算の表出的な効力を説明するためでさえ、表出主義者は非常に大きな範囲のかなりラディカルなコミットメントを引き受けざるをえない。