Alwood(2010)命令節とフレーゲ・ギーチ問題

Analysis上のSchroeder(2008)の書評。後にSchroederは応答している。
Imperative Clauses and the Frege–Geach Problem

イントロダクション

  • 重要な事に、Schroeder(2008)はメタ倫理学的な非記述主義が自然言語の規範的言葉を説明しようとするなら、新しいアプローチを発展させる必要を示した。
  • しかしながら、Schroederは命令法が非記述主義的な意味論において持つ致命的な重要性を見逃している。彼のヴァージョンの表出主義は、命令法が規範的な言語のモデルとして役立つ方法をミニマルにするまさにその点で、指令主義と異なっている。
  • この記事では、命令法のケースが、規範的な言語に対する非記述主義的なアプローチに適切であり、またSchroederの表出主義の発展にもそれが適切であると、私は主張したい。
  • 特に、多くのことが、規範的語が態度を「表出」する意味に左右される。

    今後の展開

  • イントロダクション(イマココ)
  • 私は先-表出主義の見方と、Schroederの表出主義が異なるいくつかの方法をハイライトしよう。
  • 命令法とその他の非-平叙文(non-declaratives)の場合に見られるべきである本当の楽観主義を説明し、その後、フレーゲ・ギーチ問題に対するその重要性を私は説明する。
  • 命令文や平叙文、疑問文といった文の叙法への不注意が、Schroederの表出主義の発展にどのように問題を引き起こすかを探求する。
  • 私は、Schroederの表出主義に対する悲観的な側面が、先-表出主義者の概念を取り入れる理論のおける興味をあおるに違いないと示唆することによって結論を行う。

2. 表出主義と先行者たち

  • 古典的な非認知主義者=自然言語において、規範的言語の言葉を用いて話者が何を行うかにフォーカス
    • Stevensonの「二つのパターンの分析」は彼女の聞き手に影響を与える動的(dynamic)な要素を含んだ。
    • Hare「よい」が「評価的意味」を含むと主張。
  • 一方で、Schroederの表出主義は規範的言語は日常の記述的言語とまさに同じであると強調する。
    • 規範的・平叙文的文と非規範的・平叙文的文の違いは、どちらの心の状法をそれらが表出するかに還元されなければならないと主張する。
    • 規範的文は欲求的(desire-like)な状法を表し、日常の記述的文は信念的状法を表すと考える。
      (この意味だとexpressの訳語は表出よりも、表現の方がふさわしいかもしれない)
  • もう一つの両者の違い= 規範的文と記述的文のどこが似ていると考えるか。
    • 表出主義者は規範的文も記述的文のどちらも、心理的な状法の表出であると還元される。
    • 規範的文は命題を表出すると言うこともできるが、そう言えるのは、構成された、非実質的な意味においてである。
  • 古典的なHareやStevensonらは、異なった立場の類似性を指摘する。
    • 規範的な文が記述的な意味を持つということを彼らは認める。
      • Stevensonは彼のキャリアの後期までミニマリスト的な真理のアプローチを拒否していたので、枯れの二つの規範的文の分析パターンは、強い意味で真理条件的で命題的な内容を含んでいた。
      • Hareは記述的意味と評価的意味を区別していた。
    • だから、これらの論者は、規範的な語は非規範的な語の同じタイプの意味を持つという点で表出主義に同意するように見える。
    • しかし、彼ら古典的な非認知主義者はこれをもっとまっすぐな意味でいっている。
      • なぜなら、彼らは、記述的意味という特に還元されない観念を用いているが、
      • 一方で、表出主義者は日常の記述的意味を、態度の表現の何らかの種類に還元し、非実質的な観念である規範的永大を構成しようと試みるためである。
  • 表出主義者は、それらの生じる分の意味の態度にのみしか寄与しない規範的な語について「ピュアな」理論を持っている。StevensonとHareはより自然に「ハイブリッド説」に分類される立場である。
    • なぜなら、彼らは第二の、非記述的な意味を、日常の記述的な意味を越えたものとして主張するためである。

3. フレーゲ・ギーチ問題

  • GeachとSearleによってHareを対象になされたオリジナルの抗議は、「よい」という語の使用には推奨の働きの無い多くの方法があるというものだった。
    • これは、条件文や選言、非平叙文的な文に「よい」を埋め込んでみればすぐ分かる。
  • もしいくつかのリンゴがよいなら、そのとき、いくつかのフルーツはよい。
  • いくつかのリンゴはよい。
  • だから、いくつかのフルーツはよい。
    • 1.では全く「推奨」が行われていない。
    • そのため、GeachとSearleは、「よい」という語の両義性(ambiguity)を想定すること無しにこの事実を許容することができないと想定した。
      • 推奨の意味で用いられる場合と、推奨の意味で用いられない場合と、で。
  • 埋め込み論証に関して、メタ倫理学で有力な見解は以下の3つ。
    • 発語内効力は文の意味の一部ではない
    • 表現の意味とそれによってなされる使用との間には際立った違いがある。
    • 発話行為に関係のあるものは何でも語用論であり意味論ではない。
  • 実際、これはヘアのような発話行為論者にとって埋め込み論証を致命的なものとしている。
  • Schroederの表出主義は、発語内の要素を明示的に避けているため、この否定的な見解を共有しているように見える。
    • 文とそれを用いて話者が何をするかは関係がない(Schroeder 2008: 31)。
  • こうした態度の表出の理解の仕方の違いは、微妙ではあるが重要である。なぜならば、それがSchroedrの表出主義に、言語の使用が全く意味の一部ではないという埋め込み問題を提出した側に賛同させているからである。
  • しかしながら、よく用いられるフレーゲ・ギーチ問題の理解には欠陥がある。
    • なぜならば、その意味-使用の区別が過度に単純化されているためである。
  • フレーゲ自身は文のmoodが発話行為に親密に関係しているものとして捉えていた。
    • そのため、「フレーゲ・ギーチ問題」という名前はまるでフレーゲがギーチに同意しているようで、皮肉である。
    • しかし、フレーゲの意味論的システムは、発語内効力の余地を残していたことを思い出してほしい。
    • 彼の概念記法は、主張記号を含み、垂直の判断線という要素を含み、それは命令や約束、質問ではなく主張という発話行為がなされていることを示すものであった。
    • また、フレーゲが彼の効力と内容の区別を記述した時、彼は内容をの発語内効力から区別したのであった。
    • 彼は、yes/noという疑問文には違う種類の効力が含まれるが、平叙文と同じ内容を共有すると主張した。
    • だから、フレーゲはヘアと文-意味と発語内効力が何らかの意味で重複するということに同意するように見える。
  • 文のmoodこそが人が、発語内効力に関する言語的慣習の候補を見つけられる場所なのである。
    • 平叙文、疑問文、命令文の例示。
    • もしこれらに同じ意味を帰し、他に何も付け加えないなら、私たちの意味論は明確に非同義語的な文を区別することができない。
    • 英語以外の例示。
  • しかし、私たちはどのようにそれが同じ区別であると知るのだろうか。どんな規準が平叙文と命令文、疑問文を区別するのだろうか。
    • 言語学者は、統語論的な構造の典型的もしくは一般的な使用がそれだと言う。
    • こうした方法論は実のところ有能な話者がどのように発語内効力を文の意味として知るかを「使用可能性」(usability)として前提している。
  • 文の法はその言語の使用に関わりのある意味のタイプを持つため、意味と使用の間には何らかの「重複」があるのである。
    • しかし、これは、フレーゲ・ギーチ問題と同じ問題を発話行為にも発生させてしまう。
    • 私が説明するように、法はより大きな構成の中に埋め込まれることができ、それはさらに、発話行為ともにそれらの主張の力を失わせながら起きるのである。
  • 文の法は、スコープの文にある何よりも大きなスコープを持つと、しばしば誤って想定されている。
    • 例えば、(7)のような条件文的命令文が、実際には、条件的主張をそのスコープの内側に入れた単なる命令法でしかなく、より明確に「もしあなたが彼に会うなら、あなたは彼にうちに変えるようにいうということを現実にしなさい」(Make it the case that if you see him you tell him to come home)という文として説明される。しかし、この見解は、シュローダーが言うように、なぜ異なる法に関わる混合文があるのかを説明できない。
    • 条件文の十全な説明は、その説明がどのように平叙文の前件と非平叙文の後件とを組み合わせることができるのかを説明しなければならない。
    • 例文(8)は省略。
      (7) もしあなたが彼に会うなら、彼にうちに帰るように伝えなさい(If you see him, tell him to come home)
  • 文が狭いスコープを取る時、その節はより大きな文の内側に埋め込まれる。
    • しばしば、より大きな文は、埋め込まれた法の効力を示す力を引き継ぎ損ねる。
    • これは、条件的命令と間接的な発話において見られうる。
      • 例)(11) もしあなたがジョンなら、座りなさい!(If you are John, sit down!)
      • 「座りなさい」(聞き手への直接的命令)と「あなたはジョンである」(主張)の組み合わせである。
      • しかし、この両方を組み合わせた文である(11)はこの両方の発話行為を行わない。
      • その代わり、これ聞き手が、聞き手がジョンであるという状況において座るように教示するのにこれは適している。
    • 構成する節の意味は全体としての意味を形成するよう結び付けられ、構成的な過程は、それらの関連付け(association)を発話行為とともにその内容だけでなく結びつけるように関わる。
    • 以下の2文も同様。(12)では疑問の意味があるが、(13)はそれが欠如し単に行為を記述しているだけである。
      • (12) 空は青いだろうか?(Is the sky blue?)
      • (13) ジョンは空が青いかどうかを聞いた。(John asked whether the sky is blue)
  • 効力表示の法がその効力を決定すること無く埋め込まれるには、2つの方法がある。
    1. 埋め込み論証によって文の意味には発語内の意味が全く含まれないと考えるかもしれない。
      • その場合、言語的研究の実践は、文の法と発話行為の間の慣習的な関係を想定する点でミスリーディングである。
    2. 埋め込み論証はあまりにも強い効力表示の概念を用いていると考えることができるかもしれない。なぜなら、それがもっともらしい例を除外してしまうから。
      • 埋め込みだけでなく、言語使用の主張されている慣習の両方を許容する効力表示の概念を明示化する方向性。
        ↑こちらを目指すべきだろう。
        つまり、もし規範的な言語が法(より議論が必要なものだが)が表示するように効力を表示するなら、その場合、その埋め込まれる力は法と同様に説明されることができるはずだ。これはそれ自体でうまくいくような説明ではないが、むしろ、シュローダーの言う「楽観主義へのライセンス」を与えるものだろう。

4. 楽観主義へのライセンス、そして非平叙文の適切性

  • Schroederが妥当と考える命令法の楽観主義= 複雑な平叙文と同じ意味論的性質を共有する命令法がある。
    • つまり、andやor, notは命令法にも適用される。
    • しかしだからといって見境なく命令文と平叙文をひとつの文として混合できる訳ではない。
      • ☓ ‘Pick up the phone and it is ringing’
      • ○ ‘Pick up the phone when it is ringing’
      • ○ ‘Pick up the phone because it is ringing’
    • これらの妥当性の有無の説明は難しい。本稿の射程を越えている。
  • 楽観主義へのライセンスは純粋な規範的文のみに延長されるべきだとシュローダーは結論付ける。
    • つまり、彼は規範的言語についての非記述主義者は規範的節のある複合文のみを説明できるに違いないと考えている。
    • 確かに、彼らが複合文を説明する際には困難に直面するというのはもっともである。
    • しかし、なぜ複合文の困難が表出主義の見込みに影響するのだろうか?
    • シュローダーの第二章では満足の行く答えは提出されていない。
  • シュローダー流の表出主義の主張可能性意味論(assertibility semantics)では、発話者がその文の表現する心の状態にいる時に話し手にその使用を許可する、という正しさの条件によって、文の意味は与えられる。
  • 命令法からの何らかの楽観主義へのライセンスを手に入れるためには、表出主義者は自身の規範的言語の説明を命令法の説明と接続する必要がある。
    • 命令法はまた欲求的状態を表現するものであるから。
  • シュローダーの表出主義者のアプローチは、「標準的図式」(the standard semantic picture)と彼が呼ぶものと対照的に扱われている。

5. 表出主義の代替案

6. 結論