Searle(1962)意味と発話行為

Meaning and Speech Acts on JSTOR

意味と発話行為

後半に関しては、J. Searle (1969). Speech Acts, an Essay in the Philosophy of Language. Cambridge University Press.とほぼ同じですが、前半部の日常言語学派批判はこちらの元論文の方がやや詳細に展開されています。

I. 発話行為に依拠した分析に対する反例

  • 近年、R. M. Hareの『道徳の言語』やP. F. Strawsonの『真理』に代表されるように、語の意味をその使用や機能と同一視する哲学的分析が流行している。
  • これらが依拠しているのは、以下の様な分析である。
(1) ある語Wは、発話行為または行為Aを遂行するために用いられる。  
(2) (1)の言明は、語Wの意味か、少なくとも語Wの意味の一部を教えてくれる。 

さらに、

(3) もし語Wが文Sにおいて生起し、かつ、文Sにおいて語Wがその字義通りの意味を持つのであれば、その場合、Sを発話する際には特徴的に、人は行為Aを遂行する。  
  • しかしながら、この見解を反駁するのは簡単である。私たちはWが文字通りの意味で生起するが、Aの遂行が行われていない文脈を見つければよい。
    • たとえば「よい」が「推奨」(commend)を意味しているとしてみよう。
      • 「これはよい車である」では人が推奨をしているとしても、「これは良い車だろうか」(Is this a good car?)という疑問文(interrogative)では、明らかにこの行為は行われていない。
    • しかし、これ自体は深刻な反例ではない。
      • 「これはよい車だろうか」=「あなたはこれを推奨しますか」と翻訳する手があるため。
      • だからこれ自体は(1)(2)に対する反例にはなるが(3)に対する反例にはならない。
      • 「よい」の起きる全ての文が推奨の遂行である」という馬鹿げた解釈にこの理論の主張者はコミットする必要はない。
  • むしろ、以下のような見解をこの理論の主張者は支持するだろう。
(4) もし語W(e.g. "good")が文Sにおいて生起し、かつ、文Sにおいて語Wの字義通りの意味を持つのなら、その場合、ある人が文Sを発話する(utter)時には特徴的に、発話行為A(e.g. commendation)は*生じそうになっている*(in the offing)。もしSが単純な直接法の文(e.g. "This is good")なら、それは遂行される; もしSが疑問文(interrogatives)なら、それは(恐らく)他の形態などを通じて誘い出される。
  • これには幾分問題を解決するが、しかし、(4)に対しても反例を出すことができる。
  • この見解では、「よい」は「私はそれを推奨する」に変換される。(ただし推奨以外の発話行為を追加しても構わない。)
  • 以下の例文を考えてみよう。

    • (1) もしこれがよい電気毛布なら、その場合、恐らく私たちはそれをネリーおばさんに買うべきだろう。(If this is a good electric blanket, then perhaps we ought to buy it for Aunt Nellie.)
    • (2) それってよい電気毛布かしら。(I wonder if it is a good electric blanket.)
    • (3) 私はそれがよい電気毛布かどうか分からない。(I don't know whether it is a good electric blanket. )
    • (4) これがよい電気毛布だと期待しよう。(Let us hope it is a good electric blanket.)
  • しかし、以下の例では、私たちが(4)に同意したとしても、十分説明されつくされない。

    • (1a) もし私がこの電気毛布を推奨するなら、その場合、おそらく私たちはそれをネリーおばさんに買うべきだろう。(If I commend this electric blanket, then perhapswe ought to buy it for Aunt Nellie.)
    • (2a) 私はこの電気毛布を推奨するのかしら。(I wonder if I commend this electric blanket.)
    • (3a) 私は私がこの電気毛布を推奨するのかどうか分からない。(I don't know whether I commend this electric blanket.)
    • (4a) 私がこの電気毛布を推奨すると期待しよう。(Let us hope I commend this electric blanket.)
  • これはおかしい。つまり言語的な文脈を置き換えても、その意味は保存されない。

    • "I commend this electric blanket"と"This is a good electric blanket"のような表現の間における機能の類似性(similarity)を考察することから私たちははじめた。しかし、こうした機能の類似性は、要素の語の字義通りの意味を変更すること抜きでこれらの語が置かれることが可能な言語的な文脈、その言語的文脈における入れ替え(permutation)を通しても保存されないのである。"If I commend this, then so and so"という形態の仮定文の発話において仮定されているものは、定言的な直接法文の"I commend this"の発話において遂行される行為、その行為の遂行である。しかし、"If this is good, then so and so"の形態の文の発話において仮定されているものは、定言的な直接法文の"This is good"の発話において遂行されると主張される行為の遂行ではない。なぜなら、実際にはどんな行為も行動(action)もここでは全く仮定されていないからである。

  • まとめると、私たちが「「これはよい」は推奨のために用いられる」と私たちがどのように解釈しようとも、1.-4.の反例を考慮する限り、その仮説は崩壊する。 *なぜならば、これらは語の文字通りの生起であり、推奨という発話行為は全く生じうる状態ではないためである。

II. 発話行為に依拠する分析において誤りが生じる方法

[省略]

III. 二つの種類の発話行為を分別する必要性

  • 問題はこうである。:何かをよいと呼ぶことが推奨等であるという非偶然的な事実と、一方でHareや他の論者が「よい」の意味について仮定している種類の情報をこの非偶然的な事実が与えないということ、この両方が、妥当であるということが、一体どのようにして可能なのだろうか?
    • これはある人を共産主義者であると現代のミシガンで呼ぶことが、彼を侮辱するという事実のようなものではない。
  • だから何かをよいと呼ぶことが推奨することである、という準必然的な事実は、私たちに「よい」の意味を教えるのではなく、あるグループXの組織に埋め込まれている方法を教えるものであり、その組織とYのグループの発話行為との関係を教えるものである。