Blackburn(1984)評価、投影、準実在論

Spreading the Word: Groundings in the Philosophy of Language

Spreading the Word: Groundings in the Philosophy of Language

『言葉を拡散する』("Spreading the Word")第6章の「評価、投影、準実在論」。
フレーゲ・ギーチ問題に対する表出主義側の2番目の回答。後に高階の態度説(Higher Order Attitude)と呼ばれる。

1. より詳細な動機

投影的モデルとは

  • いくつかのコミットメントの投影的説明は、それら[投影的性質?]を以下のような図*1の一番上に位置づける。
性質 関係 ひと
拡散された性質 ←投影される← ↑習慣、感情、態度
本来の、観察される性質 →影響を与える→ にんげんさま
説明的性質 ←本当の信念← にんげんさま
  • これ[投影的性質?]は他の二つの場所と対照的である。
    • 中央のもの[観察される性質?]においては、話される特徴(例. 価値の所有や、権利や義務等の存在)はそれら自身で私たちの信念の起源の一部である。
    • 価値などが世界へ何らかの仕方で世界のあちこちに分配されており、私たちはそれらに反応し、何らかの獲得や直観によってそれらを知ることが可能であるからであるように見える。
      • だからこそ、私たちが道徳的である(moralize)際にそうであることが可能なのである。
    • より下位の場所においては、これら[投影的性質]の認識はなく、より日常的な知覚モードに匹敵するものは無い。
  • 私たちが世界について持ち込む情報の全ては、自然の用語で記述できるだろう。
    • 私たちは、物理学のようなより高階の概念に関わる理論を構築するためにそうした情報を使うことができる。
    • しかし、同様のやり方で、私たちはそれ[世界の情報]を道徳的概念を構成するために用いることができる。
    • しかし、これが行われる際には、私たちは世界についてのさらなる記述を行っており、それをさらなる道徳的な状況を含んだものとして私たちは見なしている。

投影的モデルを選ぶ理由は3つ

説明の経済性

スーパーヴィーニエンス

行為と欲求との連関

[以上3点の説明は省略。スーパーヴィーニエンスの説明は、かなり紙数を割きながらKimとかDavidsonを引きつつちゃんと行っているので、今後見直す必要性アリ。]

本節のまとめ

  • 投影主義を確立するためには、私たちは世界に拡散される態度の性質についての詳細な説明が必要である。
  • ある態度を道徳的なものにするもの、私たちがそうしたものの代わりになりうるもの等を位置づけることに関わる。
  • しかし、言語哲学は、これらのジュシーな話題に相対的に静寂であることもできる。
  • 私たちの関心は、私たちの論証の範囲が、道徳的発言の意味の理論から始まり、投影主義を阻むかどうかである。
    • この問題は、なぜ私たちに言語的表現や思考を許可するかを準実在論が説明することができるかどうかである。
  • なぜなら、準実在論の成功は、経済的観点、形而上学的観点から、投影的な道徳の説明をはるかに魅力的なものにするためである。
    • 実際、これは道徳哲学における唯一の進歩的研究である。
    • しかし、言語哲学がそうした研究に対して何らかの障壁をもたらすことがあろうか?[いやそんなことはない]

2. フレーゲの論証

ギーチの残した問題とは

  • P.T. Geach(1964)*2のAssertionの議論。
    • 彼が非認知主義に対して疑問を呈したのは、はMP推論における「両義性の誤謬」(a fallacy of equivocation)だった。
    • 彼の「フレーゲの論点」とは、文が、それぞれの「悪い」の語について同じことを意味するという論点である。
    • 英単語"bank"の例:bankには(1)銀行(2)土手の二つの意味があり、推論の中でこの語が両義的に使われれば不正。
    • もし両義的に使われたなら、両義性の誤謬を犯すことになる。

      嘘をつくことは悪い。
      もし嘘をつくことが悪ければ、あなたの弟に嘘をつかせることも悪い。
      ゆえに、 弟に嘘をつかせることは悪い。

  • しかし、この推論の2行目の仮定的な前提を主張する人は、嘘をつくことへの責めの態度を全く表出していない。
    • こうした文脈を、主張されていない文脈(an unasserted contenxt)と呼ぼう。
  • いま問題は:表出主義者の理論がどのように意味の同一性を説明するか?である。
  • さらに、主張される・主張されないに関わらず、その文が同じ意味を持つことを可能にする方法で、主張されていない文脈に対処しなければならない。

ここで表出主義者が直面する問題はふたつ

  • ここにおいて、表出主義者は二つの問いに直面している。

コミットメントの役割

  • 第一に、こうした発言[複合文?]をなすときに私たちが何に依存しているのかを、表出主義者は説明することができるのだろうか?
    • (行間を読み補足:Blackburnは日常のコミュニケーションにおいて、評価・態度的コミットメントと記述的コミットメントの二つが、それぞれの文に応じて行われていると考える。)
    • 条件文の主張されていない文脈では疑い、信念、知識という[記述的コミットメントの対象である]思考のように、道徳的な述語は表れている。そもそも表出主義者はなぜ私たちがこうするのかを説明することができるのだろうか。
    • 私たちが信念の表現(expression)と評価を連言させることができる事実を考えてみよう。
      • 例:「嘘をつくことは悪く、かつ、きみのお母さんは困っている」
    • 評価・態度的コミットメントと記述的コミットメントという、二つの全く異なるコミットメントを私たちが連言させるのは、ほとんど驚くべきことではない。
    • なぜなら、私たちは両方を用いてコミュニケーションを行うことをしばしば欲するためである。[そしてこれら二つが私たちが依存しているものである。]
    • しかし、この答えだけではまだ、次のもう一つの問いが残ってしまう。

接続詞の役割

  • 第二に、なぜ私たちはこうした特定の文[や接続詞]を、その目的に役立つよう持っているのだろうか?
    • 「かつ」の例で言えば、「嘘をつくことは悪い」と「きみのお母さんは困っている」の両方が真である場合その場合のみに、この文全体「嘘をつくことは悪く、かつ、きみのお母さんは困っている」は真である。
    • しかし、表出主義は真理を認めないので、「嘘をつくことは悪い」の真偽を認めない。
    • だからその代わり、私たちはこう考えなければならない。:「かつ」という接続詞は、それぞれのコミットメントが受容される場合その場合のみ全体のコミットメントを与えることができるように、コミットメントを結びつける接続詞である、と。
      • なぜなら、「かつ」という接続詞は、本来の真理値を許可する信念ではないもの--例えば命令(command)でも、発話を結びつけることができるからである。
    • この場合、コミットメントという観念は、日常的な信念という種類と、他の態度、習慣、指令(prescription)等の他の種類のものの、両方を含む可能性がある。

条件文の中で行われるコミットメントの種類

  • だから、フレーゲの問題に取り組むために必要な第一のことは、コミットメントを条件文に押し込む際に私たちが依存しているものは何か、の見方である。
    • 当然、それらは含意(implication)だろう。
    • しかし、態度はどのように含意を持ちうるのだろうか?
    • それは、道徳的感受性(a moral sensibilty)によって影響を受ける、表出的態度間の相互作用である。
    • 私たちはさまざまな感受性のうち、どれを選んでどれを拒絶するかを選ばなければならない。

たとえば、嘘をつくことに対する否認の態度と、弟に嘘をつかせるという肯定の態度は、私の承認を受けないだろう。私はただ、第一の行為を第二の行為と同じ強度で拒絶する人々を褒めることができるだけである。人々がこの組み合わせを持たなければならないのが私にとって重要なのは、その[組み合わせの]欠如が感受性の危険な弱さを開いてしまうからである。その所有者は、嘘をつかせることの間接的な方法への、誤った態度を持っているのだろう(この場合では、彼の弟への誤った態度を)。
条件文の形は、私にこの承認を示すのである。*3

  • ただし、もし「俺は弟の子守り屋じゃないぜ!」と考える人なら条件文を拒絶するだろう。
    • 前件と後件の間に大きな違いがあると考える人は、条件文を拒絶する。
  • しかし、条件文が道徳的なある見方を表出するというのは、極めて満足のいく考え方だろう。私たち表出主義者はこれを説明すべきである。

表出言語Eexを組み立てる

演算子と連言の導入

評価的要素とともに条件文を用いる際に私たちが依存しているものは何か、という説明は、次に意味論によって補足される必要がある。私たちはこの必要を以下のように位置づけよう。英語とは違い、評価的な述語を含まない言語を想像してみよう。それは、価値判断の表出主義的な性質を身に着けている。その言語をEexと呼ぼう。それは、物事の記述が態度の表出にあると考える、「フレー!」(hooray!)演算子と「ブー!」(boo!)演算子(H!, B!)を含むだろう。…… 私が展開した理由のために、Eexの話し手が別の装置として、感受性の構造についての見方を表出することを可能にする装置を望むと私たちは期待してもよいだろう。それらは、様々な態度の組み合わせ(coupling)や、信念と態度の組み合わせを承認したり拒絶したりするための記法を必要とするだろう。ある表現をバーの内側に置くことによって、私たちがある態度や信念について話すと想定してみよう。:|H!(X)|は(X)の承認を示す。そして、私たちが、一つの態度や信念が、もう一つの態度や信念に関わったり、組み合わさったりする見方を表示するために、セミコロンを使うと想定してみよう。*4

  • この場合、「もしトッテンハム[というサッカーチーム]がよいチームなら、アーセナルもよいチームである」という条件文と、「嘘をつくことが悪ければ、あなたの弟に嘘をつかせることも悪い」という条件文は、以下のように描き直されるのである。
H! (|H!(Tottenham)|;|H!(Arsenal)|)
H! (|B!(lying)|;|B!(getting little brother to lie))
  • 第一のものは、もし彼らがトッテンハムを承認するなら、その場合またアーセナルも承認するという感受性だけを表す。

Eexのさらなる構成

  • 時制の表現なども必要だろう。
  • さらに、コミットメントの頑強性(robustness)を示す必要もある。
    • なぜなら、私が感受性や態度間の整合性に問題が起きやすいと指摘した点を思い出してほしい。
    • つまり、私たちの反応の仕方も常に不確かで、改善の余地のあるものなのである。
    • 私には、私の道徳的コミットメントの他のありかたを検討する必要があり、さらに、それらのコミットメントをもたらす際に、ある態度か別の態度のどちらをコミットメントを決めるために始めたらよいか、が分かる必要がある。
      • だから、Eexには、異なる程度の頑強性を示す必要がある。
  • たとえば、?H! (H!(X))H!は並立する。
    • さらに、?H!(H!(X))は、自分自身の是認の態度それ自体が是認されることに対する不確かさを示している。
  • 一致(consistency)や不一致(inconsistency)を表現し伝えるのにもEexは役立つ。以下の例を考えてみよう。
B!(lying)
H!(|B!(lying)|;|B!(getting little brother to lie))
  • 嘘をつくことへの否認、そして(弟に嘘をつかせることへの否認)をなすことが、(嘘をつくことへの否認)に続く。

この組み合わせも主張する人はだれでも、後件の否認を主張せねばならない。:彼は弟に嘘をつかせることへの否認にコミットしている。なぜなら、そうせねば彼の態度が衝突(clash)してしまうためである。[もしそうすれば]彼はそれ自身では承認の対象になり得ないヒビの入った(fractured)感受性を持つのである。ここでの、「なり得ない」(cannot)が続くのは、実在論者の説明と同様に、そうした感受性が、それが記述しようとしている道徳的事実とは異なるラインのものためではない。そうではなくて、そうした感受性が私たちがものごとを評価する実践的な目的を達成することができないために生じるのだ。Eexはこれを合図することができる。*5

  • 最初のふたつのコミットメントがなされ、しかし弟に嘘をつかせることは悪いというコミットメントが行われない際に、それが論理的誤りであると説明できる必要が、Eexにはある。
    • つまり、改善・衝突・含意・態度の一致を説明できる必要がある。
    • こうした必要性は、Eexが日常の英語のように進歩することによって満たされるだろう。
    • Eexが完成した場合、世界に「投影する」態度によって意味されるものがその言語になるだろう。

以下はまた今度!

3. 真理を構成する

4. 間奏曲: 二価、フィクション、法則

5. その他の反実在論: 因果、反事実的条件文、唯心論

6. 心-依存性(mind-dependence)

*1:このブログの表は便宜的なもので、本編p.181にはちゃんとした図がある

*2:なぜかBlackburnの参照先は1965年ではない。本家では1965年である。

*3:p.192

*4:pp.193-194

*5:p.195