van Roojen(2015)メタ倫理とメタ規範の違い

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

第14章 Odds, Ends, and Morals

  • 私たちの実質的なメタ倫理学の立場を概観する試みは、ある種の循環に入ってしまった。
    • 私たちは、錯誤理論という、本書のイントロで扱ったミニマル実在論へのいくつかの信頼にもとづき倫理を疑問視する見方からはじまった。
      • その後、錯誤理論の示した疑問を解消するための様々な試みを私たちは概観した。ミニマル実在論への補足を行う立場(主観主義と科学的実在論)もあれば、ミニマル実在論に対する拒絶を行う立場(非認知主義とフィクショナリズム)もあった。
      • さらに、ムーアの開かれた問い論法によって有名になった見解である、非自然主義を考察した。
        • 自然主義とは、道徳的思考と道徳言語によって表彰される性質は独自なもの(sui generis)であるという主張である。
    • このサーベイがメタ倫理学における主要な立場を役立つ方法で順序立てて整理し、それらを、初期の章において導入されたいくつかのパズルに対しては、重要なことに少なくとも応じることのできる能力のある、様々な切実に希求されたもの(desiderata)へのいくぶん自然な対応として、それらのメタ倫理学の立場を示すことができることが、私の望みである。
  • しかし、ここまでのサーベイで見ることのできなかった有名なメタ倫理学的主題が2, 3ある。
    • それらは、「合理主義」(rationalism)「構築主義」(constructivism)「神聖な命令説」(divine command theory)である。
    • 「合理主義」と「構築主義」がここに入らなかった理由は、このラベルがいくつかの立場にあてはまるためである。
    • 「神聖な命令説」については、本章で説明する還元的自然主義の超自然主義的な一種だとしたほうがよく理解できるためである。 * 私は本章で、これらのそれぞれを節ごとに議論していく。
  • しかし、最初に、私たちをどんな個別の包括的(comprehensive)なメタ倫理学的理論からも飛び越えさせ、ある意味ではメタ倫理学そのものすら飛び越えさせてしまう、一つの一般的な問題を挙げさせてほしい。

14.1. メタ倫理学からメタ規範性へ p. 270

  • 規範性と倫理の違い。
    • 倫理や道徳におけるパズルへと導く特徴の多くは、倫理を含むがそれを越えたドメインによって共有されている。
    • 私たちは、このドメインを規範性(the normative)と呼んでもよいだろう。
      • 非常に大雑把に言えば、あるドメインが規範性であるのは、それが、行為と信念との間の選択といった、選択を導くための基準(standards)である場合である。
      • 人があるドメインが真に規範性であると考える時には、典型的には、彼らはそれらの基準が、行為者や選択者の感情を抑えるべきだと考えており、そのため、彼または彼女はその基準が勧めるように選択すべきなのである。
      • フィリパ・フットの性差別主義者クラブのルールは、それらのルールには従う理由がなにもないため、真に規範性ではない。
    • ほとんどの人は規範的な基準は道徳性の規範を越えたものだと考えているため、私たちは道徳性を、規範性の適切なサブセットとして考えることができる。
      • たとえば、自愛の思慮(prudence)という基準やよい推論などの基準がある。
      • たとえば、前提の信念を退けるのでないかぎり、あなたは、あなたの受け入れた前提を持つ短い論証の結論を本当に是認しなければならない。これは、あなたがやるべき理由のあることだ。
      • 少なくとも、これらの非倫理的なドメインについての標準的な見方と言ってもよいだろう。
  • これらのドメインは倫理的ドメインと相当に多くのものを共通して持つため、人々をメタ倫理学に興味を持たせる多くの関心は、それに平行したメタ規範的問題における関心をもまた、動機づけるのである。
    • そして、メタ規範性について考えることはまた、標準的なメタ倫理学的見解に並行する立場を、しばしば産み出す。このことは強調する価値のあることである。
    • おそらく、倫理における非自然主義に好意的な人はだれでも、一般的に規範性についても非自然主義に対して好意的だろう。倫理が自然的性質と関連する自然と大変異なっているという彼らの論争のために、非自然主義者がなしてきた種類の議論を踏まえれば、これはなんら驚くべきことではない。
      • 自然主義者が指摘する道徳的判断の特徴は、きわめて一般的に、判断にかかわる理性の特徴と共有されている。
      • たとえば、(非道徳的な正しさを含めて)一般的な実践的理性の性質について、開かれた問いを見つけることは、道徳的な正しさの性質に関するそのように開かれた問いを見つけることと同様に、簡単なことである。
      • 同様に、幾人かの理論家を道徳的正しさのような道徳的性質についての洗練された主観主義者や反応-依存性理論家となるよう動機付けた種類の内在主義は、それが、慈愛の思慮の理由に基づく判断や自身の関心が関わる場合にすべき正しいことへと適用された場合、同じように、魅力的に見える。
  • この論点は実在論者と記述主義者というメタ倫理学的見解を超え出る。もっとも洗練られた形態の非認知主義は、非常に一般的な規範的態度の分析からはじめ、主観的事柄によって異なる規範的ドメインを区別するか、もしくは、より基本的な規範的態度から外れて、道徳的態度を構成する(Gibbard, 1990, 2003)。
    • 明確な利点は、それが、非認知主義者の目標とする現象がどこで生じようとも、ひとつの包括的な説明を構成することを許すということである。
    • だから、非認知主義におけるメタ倫理学からメタ規範性への移行は、とても自然で魅力的である。
    • それは、理論家に対し、共通する現象が生じた場合に、統合的な説明を提供することを許可するのである。
  • しかし、すべてのメタ倫理学的な立場が規範的なドメイン全体に、他の立場ほど上手く広がらないということを私たちは注意せねばならない。規範性一般についての錯誤理論の提唱者となることは、倫理のみの錯誤理論の提唱者よりも難しい。なぜなら、道徳的で実践的な理性の存在を否定する方が、実践的な理性一般を否定するよりも難しいためである。
    • 例:「他者を救うべき」という道徳的判断には普遍的な道徳と偶然的な関心の両方が要件となっており、錯誤であると考えるものでも、「全ての行為には何らかの理由が必要である」という考えには与している。
    • ただあなたの否定していることは、そのような理由が一般的に結びついたもので、必然的に共有されている、ということだけである。
    • それゆえ、あなたは何らかの規範的真理が存在すると思っており---人々が行う理由のある行為についての真理があると思っている。だから、あなたは規範性一般の錯誤理論者ではありえず、あなたが利他的行為の定言命法が必要とすると信じている道徳的理由についてのみの錯誤理論者である。
  • しかし、道徳性についての錯誤理論家でさえも、メタ規範的理論化への移動を裏付けるクロスドメインの類似性(similarity)への注意を払っている。
    • マッキー(1977, p.39)が実在論者は彼の奇妙さの論証に、罪における仲間?(companions in guilt)を指示することで答えることができると示唆したとき、彼は、倫理の他に彼の倫理に対する錯誤理論的アプローチを動機づける特徴の多くが関わる領域があると部分的に述べている。
    • これらのうちのいくつかは、もしそれらが道徳性についての錯誤理論家になる理由であるなら、規範性一般についての錯誤理論家となるよい理由である。