van Roojen(2015)フレーゲ・ギーチ問題のいま

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

第8章. Noncognitivist Heirs of Simple Subjectivism

8.3 道徳における不一致

非認知主義者以外が扱う不一致

  • 非相対的な記述主義者は道徳的な不一致も非道徳的な不一致も簡単に説明することができる。
    • 「私の家は灰色です」という人に、それは灰色ではないと言えば、私たちは不一致を起こしうる。そうした不一致が生じるのは、「嘘は常に悪い」という文の場合も同様である。
    • どちらの場合でも、私は何かがある性質を持っており、相手はそれがそんな性質を持たないと言う。
    • ある性質を持つと同時にその性質を欠くことはできないので、私たちがおたがいに言うことは論理的に両立しない(logically incompatible)。
      • つまり、あなたの否定することを私が主張するときには、私たちは不一致の状態にある。
  • 一方、シンプルな主観主義的相対主義者は、道徳における不一致を上手く説明することができない。
    • なぜなら、シンプルな主観主義的相対主義者の見解は、両者の用いる道徳的な述語は、二つの異なる道徳的性質を述定することができるというものだからである。
      • さきほどの一見すると不一致の生じている場合に、別々の性質の述定が生じていたとすると、両者の発話の内容は衝突しえない。
      • 対立しているはずの両者は、他者の否定している何かを主張していないのである。

非認知主義者の考える不一致

  • 非認知主義者は、本当の不一致が態度間の衝突であると考える。
    • もし私の態度Aがあなたの態度Bと衝突するのなら、これらの態度を直接的に表出する文もまたお互いに衝突すると考えるのは当然である。
    • 正しい方法で衝突することのできる態度を私たちが選ぶ限り、それらの態度を表出する文も同様に衝突を起こすことができるだろう。
  • シンプルな「ブー!/万歳!」モデルを例に取ってみよう。
    • 表出主義者は、同じ対象に向けられた場合に「ブー!」が「万歳!」と衝突することを考えることができる。なぜなら、両者の表出する態度が衝突するためである。
    • だから、「嘘をつくことはおかしい」が、単に「嘘つき、ブー!」の意味するものであるで、「嘘をつくことは正しい」が「嘘をつくこと、万歳!」の意味と同じだと操作することができる。
    • つまり、これらの置換された文は、それらの表出する態度から、それらの衝突する性質を引き継いでいるのである。
    • このとき、「○○は正しい」と「○○はおかしい」という二つの文は、「熊、万歳!」と「熊、ブー!」が衝突するのと同じ方法で、衝突することができるだろう。
    • ここまではよい。

非認知主義者に残された課題

  • 正しさとおかしさの述定の間にあるコンフリクトがなぜ存在するようにみえるのか、を説明する点で、ここまでの非認知主義者の理論は素晴らしい。
    • しかし、ある行為がおかしいと考えること無しに、私はその行為が正しくないと考えることができる。
    • そして、もし私が何かが正しくないと言い、あなたがそれが正しいと言うなら、私たちはまた、不一致に至る。
    • そして、「ブー!」「万歳!」モデルはその点を未だ説明していないのである。
  • それゆえ、道徳的な直接法の文の否定が何を意味するかというところまで、非認知主義者は自身の理論を拡大せねばならないのである。
    • 「ではない」(not)が道徳的文の意味に対して何を行うか、そして、道徳的な文の否定が元の文となぜ衝突するか、を説明する理論が必要である。

8.4 基礎的説明を拡大する (フレーゲ・ギーチ問題)

フレーゲ・ギーチ問題とは非認知主義者にとっての合成性の問題である。

これらの文の意味は合成的でなければならない。合成的ということによって私たちが意味するのは、より複雑な文の意味は、それらの含む用語の意味の述定可能な機能であるべきだということである。

  • 認知主義は、ある述語の表示する対象を想定することができる。
    • そのため、「かつ」「または」「もし…その場合…」のような接続詞を要する複雑な文は、原子文の真理値に応じた命題を表現していると、認知主義者は容易に考えることができる。
  • 一方、非認知主義では、条件文をはじめとして、合成性が説明すべき問題となる。
    • なぜなら、非認知主義者は道徳用語に関して表象的な図式を拒否しているため、認知主義者と同様の説明が行えないためである。

ひとつの問題は、ただ、複雑な文の構成にに埋め込まれた場合に、多くの非認知主義者らが道徳の述語の意味を表すために用いた特徴を、道徳的な文が保持しないということである。

ギーチの例が示すことは、道徳的な文が単独であるか埋め込まれているかに関わらず意味が一定であることを可能にする、道徳用語の意味論を非認知主義者が求めるべきだということである。

【コメント】基本的にvan Roojenの問題設定はSchroeder(2008)の問題設定と同じなので、本記事では大きく省略しました。van Roojenは、合成性の問題がフレーゲ・ギーチ問題の中心的な問題点であると説明しています。フレーゲ・ギーチ問題の取り上げられ方には、これまでいくつかの他のパターンもありました。たとえば、モーダス・ポネンスにおける推論の両義性の問題というGeachの当初示した論点(Blackburn(1984)もその論点に対して解答を行いました)や、真理値を欠く非認知主義者はモーダス・ポネンスのような推論が説明できないという、真理値と推論にフォーカスした論点もありました。しかし、Schroederは2008年以降、一貫して「非記述主義的特徴を持つ非認知主義者がどのように複雑な文の合成性を説明するか」という論点で整理を行ってきてました。van Roojenも、そのShcroederの整理を手堅く引き継いでいるようです。合成性に注目したこの論点も、ここ数年で定着した感があります。

8.4.1. 指令主義と命令法論理

ヘアの提案する言語のモデル:Phrastics, Neustics

  • Geachの批判の前からでさえ、ヘアはある種の推論の妥当性を説明しようと試みていた。
  • 指令主義者のヘアは、道徳的な文が、特別な種類の指令に適した命令文の一種で、「ドアを閉めろ」に類似したものであると考えた。
    • それゆえ、彼の基本的なアイディアは、文における道徳用語は、その文が遂行する発話行為の本性を表示する叙法(mood)のように機能する、というものである。
  • さらに、異なる叙法の文の間でも、共有されている内容(content)があるとヘアは考える。
    • 叙法には、命令文(imperative)や疑問文(interrogative)、直接法文(indicative)がある。
    • たとえば、「ドアを閉めろ」という命令文でも「ドアが閉まっている」という直接法文でも、前者はその実行を推奨し、後者は物事が実際どのようにあるかを主張しているが、両者は、同じ内容を持ち同じ命題を表象している。
    • 叙法の間で共有された部分が"phrastic"、文の意味の発話行為の力(force)を表示する部分を"neustic"と彼は名付けた。
  • このモデルはある種の発話行為を遂行するのに適した、非常にシンプルな合成的言語である。
    • さらに、以下の表8.1のように、異なる叙法を超える推論がなぜ可能であるかの理由をこのモデルは上手く説明できる。

表 8.1 ヘアの論理的モデル

元の論証 Phrasticの定式化 Neusticの定式化
主張的
全てのボールが片付けられている。 全てのボールが片付けられている。 真である。
これはボールである。 これがボールであること。 真である。
それゆえ、これは片付けられている。 これが片付けられていること。 真である。
指令的
全てのボールを片付けろ。 全てのボールが片付けられていること。 実行せよ。
これはボールである。 これがボールであること。 真である。
それゆえ、これを片付けろ。 これが片付けられること。 実行せよ。
道徳的
ボールは片付けられるべきである。 全てのボールが片付けられている。 あなた達みながこれを実行せよ。
これはボールである。 これがボールであること 真である。
それゆえ、これは片付けられるべきである。 これが片付けられること。 あなた達みながこれを実行せよ。
  • ヘアは、私たちがある論証が妥当である場合と、妥当でない場合を適切に予測できると示唆した。
  • そのため、十分な巧妙さを以ってさらに理論を拡大することができるだろう、という楽観主義の根拠を自分が持っていると、ヘアは考えた。

ヘアにとっての2つの問題

  • 本書ではヘアの戦略に深入りすることはしないが、彼の戦略を拡大する際の困難を指摘しておこう。
    • 論理的な接続詞は、異なる叙法における原子文を結びつけることが可能である。
    • たとえば、「もし雨が降るなら、傘を取りなさい」や「もし彼がそれほど賢いのなら、なぜ彼は濡れているのだ?」などなど。
    • 私たちは道徳的な文を、似たようなやり方で埋め込むことができる。
    • 一見すると、これは、命令法のための論理に根ざした、道徳的発話の論理のモデルをつくる、さらなる楽観主義の根拠となるかもしれない。かつてヘアが試みていたように。
  • しかし、こうしたヘア的な戦略にはふたつの問題がある。
  • 第一の問題は、この戦略が複雑になってしまう点である。
    • 十分な説明は、phrasticsの意味を私たちに伝えるために、標準的な真理条件的意味論を用いることができず、発話の効力を表示するneusticsを説明に入れるのも、ただ後からのみである。
      • なぜなら、何かから導かれる何か、は、埋め込まれたものの叙法に左右されるからである。
      • ある文がもう一つの文に結びついたときに導かれるものは、とりわけ、それらのうちのひとつが疑問文であるか直接法であるかかに左右される。
      • このことは、先ほどの図に戻れば確認できる。
      • それぞれの論証の第二の前提を疑問文に変え、「真である」を、問いのためのneusticsを表象するために用いてみよう。
      • あなた自身で、同じ結論が導かれるかを考えてほしい。
      • 【コメント】この部分はvan Roojenが何を問題視しているかが分かりにくい。また、次の文の意味がよく取れていない→For what follows from what will depend on the mood of what’s embedded.
  • 第二の問題は、私たちが道徳の文を埋め込む方法と、私たちが命令文を埋め込む方法との間には、深刻なディスアナロジーがある点である。
    • 道徳的文は「もし」節に入るが、命令文は「もし」節入るようには見えない。
    • たとえば、「もしそれをすることが誤りなら、ジョージはそれをするだろう」とは言えるが、「もしそれをしろなら、ジョージはそれをするだろう」とは言えないのである。
    • もし命令文がこうした条件文の前件に入らない一方で道徳的な文が入るのなら、その場合、道徳的文は命令文ではない。
  • これらのふたつの複雑化は、指令主義者にとっての一般的な戦略を終わらせるものではない。
    • 第一の困難を扱うために、指令主義者は彼らの説明を複雑化することができるし、ヘアは命令文は前件に入らないことに気づいていたように、埋め込まれた命令文のように意味論的に機能する、他の合成が英語という言語には含まれていると考えることも不可能ではない。
    • しかし、そうした困難で専門的な問題は、本書の扱える範囲を越えているため、本章でフォローする議論はここまでである。

8.4.2. 表出主義

表出主義のコミットメント

  • より現代的な説明の多くは、8.2節で説明したように、より厳格でより野心的な意味での表出主義者が提出してきた。
  • 表出主義者は、全ての道徳的文の意味論の説明を、その文が表出するのに適切な特定の心的状態に道徳的な文を固定することによって、試みている。
  • どんな非認知主義者の説明も道徳的な「信念」が何であるかを必ず説明せねばならないため、表出主義者のプロジェクトは、とにかくなされる必要のあることをしている点で、指令主義者や情動主義者に比べた場合、ひとつの長所があると言える。
  • 表出主義者の一般的な考えはこうである。
    • 第一に、ある種の文によって表出された心的状態についての説明を開発する。
    • そうした表出主義者の説明は、心的状態がほかの心的状態に対して論理的に関係する方法を解明したものであるべきだ。
      • たとえば、嘘をつくことが誤りであるという信念と、気候変動を否定することは嘘をつくことであるという信念が結びついた場合、通常は嘘をつくことは誤りであるという結論が含意(entail)される。表出主義者の理論は、こうした信念間の論理的な関係を解明するものでなければならない。
      • そうした説明を持てばすぐに、表出主義者はこう主張することができる。文が表出する心的状態の論理的関係から、文は論理的関係を受け継ぐのである、と。
    • だから、「嘘をつくことは誤りである」という信念と、「気候変動を否定することは嘘である」という文が合わされば、「気候変動を否定することは誤りである」という文を含意すると表出主義者は考える。
      • なぜなら、前提部のふたつの文が表出する心的状態は、結論部によって表出された心的状態を表出するためである。
    • 次に、表出主義者は、条件文に帰属されるべきなのはどの心的状態であるか、を私たちに伝えなければならない。
    • さらに、条件文に埋め込まれた単純な文によって表出される心的状態に対し、条件文に帰属させられた心的状態が、正しい論理的な関係性に本当に立つことを、主張せねばならない。

表出主義者の基本戦略:高階の態度説(HOA)

  • 表出主義における一般的な戦略のひとつは、Blackburn(1984, 第六章)等で提出された高階の態度説(Higher-Order Attitudes)である。
    • 高階の態度説とは、条件文を、条件文の態度によって表出された態度に向けた高階の態度に適合させる理論である。
      • たとえば、「嘘をつくことが誤りであるなら、外交も誤りである」(If lying is wrong, then so is diplomacy.)の意味を考えをてみよう。
      • 高階の態度説では、外交に対する否認すること(disapproving of)なしに、嘘をつくことを否認する態度への、さらなる否認の態度を表出したものであると説明されるだろう。
  • 高階の態度説を採用しない表出主義的なプログラムも存在し、高階の態度説はまた、批判的で綿密な調査を受けてきた。
  • しかし、高階の態度説は、道徳的文と非道徳的文の間にある論理的な関係性ををかなりシステマティックな方法でどのように表出主義者が説明しうるかの、かなり理解しやすい図式を提供してくれる。

【コメント】フレーゲ・ギーチ問題と表出主義の関係性の記述についても、Blackburn(1984)とほぼおなじことを言っているので、本記事ではかなり内容を省略しました。van Roojenは彼の1996年の論文において、高階の態度説を含む表出主義を鋭く批判した学者です。しかし、本教科書では、そうした鋭い批判はほぼ扱われていません。教科書の性質を加味して、論文と同じようなテクニカルな内容を省略したのかもしれませんが、そうであれば、Hareのneusticsの話やハイブリッド説等の細かい話に紙数を割きすぎているようにも思えます(表出主義に割かれた紙数は1頁だが、ハイブリッド説等には2頁以上使って説明している)。Schroeder(2011)における高階の態度説に対する再評価を踏まえると、高階の態度説はきちんと意義と問題点を説明しつくすことが不可能だと考えたのかもしれません。

8.4.3. ハイブリッド説

ハイブリッド説とは

  • ハイブリッド説とは、道徳的な文が(意味論的にであれ語用論的にであれ)付加的に非認知的内容を表出する一方で、それらの文が同時に通常の表象的な意味も持つ、と考えるものである。
    • ハイブリッド説の論者は、表象的な意味の部分に関しては、真理条件的意味論を用いて合成性を満たすことが可能である。
    • ハイブリッド説では、表出的な内容を意味論的として扱う際に、そうした表出的内容が使用される語の意味に慣習的にエンコードされているものとして考えられている。
      • ハイブリッド説のこの点は非ハイブリッドの情動主義者が道徳用語における表出的な要素について考えた方法と類比的である。なぜなら、情動主義者はBoo!のような態度である表出的な要素が、道徳用語に慣習的にエンコードされていると考えていたためである。
  • たとえば、誰かが「メディケイドの拡大は道徳的に正しい」と言った場合。
    • メディケイドの拡大が人間の健康を増進するという情報を伝え、さらに、人間の健康の増進に対するこの人の是認を表出するという、両方をこの人が言っているとハイブリッド説は考える。
    • このように、「道徳的に正しい」のような名辞が、人間の健康を促進するというような何らかの自然の性質を選び、さらに同時にその性質に対するポジティブな態度を表出する、という両方に適した意味を持つと、ハイブリッド説の論者は考えるだろう。
      • 【誤植?a termの動詞が分からない】For example, a hybrid theorist could think that a term like ‘morally right’ meaning which makes it apt both for picking out some natural property such as promoting human health and for at the same time expressing a positive attitude toward that property.
    • ハイブリッド説における大雑把な翻訳
      • 「メディケイドの拡大は道徳的に正しい」=「メディケイドの拡大は人間の健康を促進し、かつ、人間の健康の促進バンザイ!」(Expanding Medicare would promote human health and Hurrah for promotting human health!)
      • 【van Roojenの脚注】ここでのモデルはBoisvert(2008)とHay(2013)において提案されたモデルや、Barker(2000)のモデルで拡大された方法で提案されたモデルと同族である。Ridge(2006)は、より複雑なハイブリッド説を展開している。Fletcher(2015)において探求された、表出的な意味が語用論的に伝えられるというモデルもまた存在する。
  • 近年やや流行しているハイブリッド説のモチベーションのひとつは、それがフレーゲ・ギーチ問題に適合するのに役立つ理論を提供する、というものである。
  • モーダス・ポネンスの論証を例に取ってみよう。
    • 以下の妥当なモーダスポネンスは、
      • 前提1:もしメディケイドの拡大が正しいなら、税金の上昇は正しい。
      • 前提2:メディケイドの拡大は正しい。
      • 結論: それゆえ、税金の上昇は正しい。
    • ハイブリッド表出主義の翻訳ではこうなる。
      • 前提1:もしメディケイドが人間の健康を増進するなら、税金の上昇は人間の健康を促進する、かつ、人間の健康の促進はバンザーイ!
      • 前提2: メディケイドの拡大は人間の健康を増進する、かつ、人間の健康の増進はバンザーイ!
      • 結論: それゆえ、税金の上昇は人間の健康を増進する、かつ、人間の健康の増進バンザーイ!
    • この翻訳は、論証の妥当性の説明としてかなりよいように見える。
      • 結論の表象的・記述的部分は、モーダス・ポネンスによる前提から導かれ、表出的部分は、ふたつの前提のどちらからか導かれている。

ハイブリッド説のさらなる展開とその問題点

非指標詞的に表出を捉える

  • しかしながら、以上の議論はハイブリッド表出主義の単なる例示で、まだ重要な詳細はいくつも特定されずに残っている。
  • ひとつの問題は、「道徳的に正しい」という述語によって記述的な性質(人間の健康を増進する)が意味論的にどのように表出されるか、である。
  • ひとつの可能な方法は、ハイブリッド説の記述的内容が、その他の非指標詞的(non-indexical)表出に対する他の記述的内容とちょうど同じように機能する場合、可能になるかもしれない。
    • しかし、この方法を取るとすると、ハイブリッド説と還元的自然主義との境界線が不明確になる。
    • なぜなら、そうした道徳用語が慣習的にそれらの性質を表象し、さらに、それらの道徳用語は、適切な言語共同体がそれらを使用する方法に依存するということを、ハイブリッド表出主義が意味してしまうためである。
    • ハイブリッド表出主義が好む中傷(slur)の例を考えてみよう。
      • 「いじめ」(bully)は、標準的には、人や行為を記述し、さらに、記述された特徴に対するネガティブな態度を表出すると考えられる。
      • ハイブリッド説は、道徳用語も同種の機能を持つと考えるのである。
      • このモデルでは、「道徳的に正しい」という語の使用の様々な状況において、様々な話し手がその語を使用する際でさえ、道徳用語によって帰属される性質は一定であると考えられている。

指標詞的に表出を捉える

  • もう一つの可能な方法は、「私」や「ここ」といった指標詞に根ざした意味論をハイブリッド表出主義者がモデリングすることである。
    • つまり、表象的/記述的内容が、関連する話し手の道徳的態度によって決定されると考えることである。
    • そのため、それぞれの話し手の口が道徳用語を口にした状況に応じて、その特定の話し手が是認する性質を関連する道徳的な方法で、道徳用語が述定する、ということになる。
      • こうした見解は、異なる話し手が異なる性質を道徳的に是認するという点で、ある種の相対主義につながりうる。
    • たとえば、「誰それ」(so-and-so)という語はこの話し手である。
      • このように、発話の文脈についての事実から、述定された性質を決定する方法をわれわれに教えるような、道徳用語に関連したシンボル的(character-like)なルールを、道徳用語は持たねばならなくなる。
    • そうしたルールは、文脈にいる話し手が道徳的に是認している性質を私たちに伝えるものでなければならない。
    • 結局のところ、帰結する見方は、Dreir(1990)のような指標詞的相対主義者によって提案された種類の話し手-相対主義(speaker-relativism)と、大変類似したものに見える。
    • 唯一の違いは、こうした意味論的にハイブリッドな理論では、私たちがそれを述呈する際に、私たちがその性質への是認を表出しているという意味論である。
  • どちらの方法でハイブリッド説を開発するにせよ、帰結する理論は、非認知主義を構成するネガティブな主張を本当に受容するものではない。
    • なぜなら、述定的な道徳的文が、とりわけ、性質を述定するためである。
    • だから、全てのハイブリッド説論者が自認する訳ではないが、ハイブリッド説論者が非認知主義の発展版であるとなぜ自分たちが考えるのか、不思議に思われるかもしれない。
      • ハイブリッド説の擁護者は、道徳的な文が記述的意味においてのみ正しい場合のみに、十全にそうした文が用いられるのではない、と主張する。
      • なぜなら、そうした文を真であると呼ぶことは、それらの内容の全てに賛同することを意味し、その賛同には表出的な内容も含まれるはずだからである。このようにハイブリッド説は考える。
      • だから、道徳用語は性質を述定する一方で、道徳用語の真理条件は単なる記述的な精緻性以上のものを真である、とハイブリッド説は考える。

語用論的に表出を捉える

  • まだまだ擁護されたり批判されたりするべきことは残っているが、ひとつの新しいハイブリッド説について触れておこう。それは、語用論的見解である。
    • ここまでのハイブリッド説は表出的内容を意味論の一部にしており、それがターゲットとなる表出の慣習的意味の一部であった。
    • しかしそこで、表出的内容を道徳用語を使用することの語用論によって説明されるものとして、表出的内容を違ったふうに扱うことも可能だろう。
    • Barker(2000)やFletcher(2015)のようなこうした語用論的見解は、様々な強みと弱みを持っている。

結局のところ

  • フレーゲ・ギーチ問題はかなりの量の取り組むべき研究を必要とする。そうした研究は、非認知主義が認知主義の代替案に対して利点を持っていた場合のみ、価値のあるものとなるだろう。だから、私たちは次の節で、多くのメタ倫理学者たちが非認知主義を好むいくつかの理由を見るべきだろう。