van Roojen(2015)「非認知主義」というラベルの理由

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

Metaethics: A Contemporary Introduction (Routledge Contemporary Introductions to Philosophy)

第8章. Noncognitivist Heirs of Simple Subjectivism

イントロ

非認知主義者は主観主義者たちと、道徳的判断は感情に深く根ざしているという点で同意する。さらに、彼らは単純な主観主義者と複雑な主観主義者の両方に共有される自然主義的な形而上学的図式を受容する。しかし、現実的にも理論的にも、道徳的判断が感情や態度についてのものであることを彼ら非認知主義者らは拒否する。非認知主義者は、道徳的判断が、判断の対象について語ること無しに、道徳的態度を表出する(express)ものだと考えているのである。

  • 前章で見てきた複雑な主観主義者は、表象的な図式(the representational picture)を基本的には保持しつつ、道徳的な概念を複雑化することによって、様々な問題に対応していた。
  • 一方、非認知主義者は同様の問題に対し、表象的な図式を拒否することによって(つまりミニマル実在論を拒否によって)対応する。
  • そのため、非認知主義的見解における決定的な要素は、二重の目的を持ち(double-barreled)、さらに否定的である。
    • (1) 道徳的な文は、他の直接法文が世界を通常に表象する方法では、世界を表象しない。
    • (2) 本当の信念がするような方法で、道徳的な「信念」は世界を表象しない。

8.1. Two Negative Claim

  • なぜ「非」認知主義と呼ばれるのか。
    • 非認知主義者らは、直接法の文(例:「嘘をつくことはおかしい」)やそれを信じる状態が認知的状態であることを否定する。
    • それゆえ、これが非認知主義というラベルのためのひとつの理由である。
  • 精神の標準的な区分では、認知的状態とは世界を表象する精神状態であり、欲求や感情、好みといった様々な欲動的(conative)状態という、明らかに世界に向けられながらも非表象的な状態とは対照的に扱われる。
  • 標準的な非認知主義者らはまた、道徳用語を用いる文の意味についての記述主義を拒絶している。
    • 彼らは、道徳的な文が世界を他の直接法の文が典型的に行うような方法で表象するとは考えないのである。
  • 私たちは、これらの否定的な主張を次のようにまとめることができるだろう。
      1. 心理的非認知主義(Psycological noncognitivism):
      1. 意味論的非表象主義(Semantic nonrepresentationalism): 直接法の道徳的文は、他の直接法の文がするのと同じ方法では、世界を表彰したり記述する機能が(第一義的には)ない。(少なくとも第一には)道徳的な文は表象的ではない。
  • これらの否定的な主張のために、以下の二つの問いを非認知主義者らは喚起する。
    • (1)私たちが「道徳的信念」と呼ぶ状態はどんな種類の精神状態なのか?
    • (2)では道徳的文の機能は何で、それらは何を意味しているのか?
  • これらの問いには、肯定的な答えが必要である。

8.1.1. Some Varieties of Noncognitivism

  • 非認知主義の中でも、1.の意味論的主張と2.の心理学的主張のどちらの構成的テーゼに中心的に取り組むかによって微妙に距離がある。それでも、それぞれの見方は確かに関連する意味についての構成的テーゼと道徳的主張を受容する際の心的状態についての構成的テーゼにコミットしている。
    • 情動主義者は、道徳用語は感情を表現したり、他者を励ますための慣習的な装置であると提案した。
      • つまり、賛成(pro)と反対(con)を表現し、聞き手にその態度を共有するよう強く勧告する発話行為の一種として、情緒主義者は道徳の文をとらえるのである。
      • この解答は、情緒主義者のよって立つ道徳的判断の心的状態を、道徳の文の表出する態度として同定することを、当然のこととするかもしれない。
      • 現代の表出主義者の見解はこの路線を引き継ぎ、両方の問いにより詳細な解答を与えた。情緒主義者は表出主義者の祖先にあたる。
    • 指令主義者は言語についての主張からはじまり、指令(prescribinng)という発話行為に適した命令文に道徳の文の機能をたとえた。
      • 最も単純な形態では、「殺しはおかしい」(Killing is wrong)=「殺すな」(Do not kill)
          1. ヘアは、普遍的指令主義(universal prescriptivism)というより複雑な見解を提出した。
      • 「普遍的指令主義」における「普遍的」とは、十分に類似した状況におけるどんな人にも発話が当てはまることを表現している。
      • この見解の妥当性には、特に心理的側面に難点がある。なぜなら、ある命令を発したりそれを受容したりするどんな個別の心的状態に、ある人があらねばならないことが、明白ではないためである。
      • それでも、ヘアは確かに、ある命令文の受容が、その命令文の推奨する行為を最後までやりぬくことへのコミットメントへと関わっていると示唆している。
  • 現代の表出主義の理論家は情動主義者の後継者である。彼ら表出主義者はかつての情動主義者よりも、道徳用語の意味を特定の心的状態にいくぶんかよりきつく結びつけている。
    • また、彼らは「表現」(expression)関係の本性についてもより多くの情報を持っている。
      • たとえば、ある文によって表現される心的状態にあることを、その文の主張的な使用のための適切な条件として、表出主義者が示唆することもできるだろう。

8.2 Noncognitivism as Heir to Subjectivism

二つの構成的なネガティブな主張によって掲げられた問いに対して、ポジティブな答えを与える時にこそ、非認知主義の典型的な種が、主観主義者の根を示すのである。

  • 「道徳的な主張を信じるということは、どんなことなのか?」という心理学的な問いに非認知主義は、主観主義的な答えを与える。
    • 第六章のシンプルな主観主義者は道徳的な判断がなにか「についてのものである」(are about)であると考えていた。
    • 非認知主義者もまさに同様に、関連する心的状態が非認知的で主観的な状態であると考えている。
  • さらに、文は、道徳用語の意味を、判断の対象について話したり報告すること無しにそれらの非常に主観的な態度を表出するための言語的装置に適したものとなるだろう。
    • ここに、私たちが「非認知主義」というラベルを使うもう第二の理由がある。
    • 非認知主義者たちは、道徳判断と道徳用語の適するものの両方の説明における中心に非認知的な心的状態を据えるのである。
    • 道徳判断は、そのように非認知的な心的状態で、道徳用語の意味は、これらの心的状態だけの表現に適していると、彼ら非認知主義者らは考えるのである。
  • しかし、一般的な主観主義と非認知主義が異なる点は分かりやすいものである。
    • 非認知主義者は、態度の自己記述(self-ascribing)と態度の表出との間のコントラストを超え、大きく研究をすすめた。
    • 道徳判断が、その判断によって表出される態度という主観的状態についてのものであるということを、非認知主義者は否定する。
      • まさにそのために、非認知主義者は古びた主観主義者(old-fashioned subjectivists)と異なるのである。 * だから、「私は賛成の態度をとっています」という心的状態についての自己記述と、単なるそうした心的状態の表出との間のコントラストを上手く扱う方法が私たちには必要である。
    • 表出主義者らは、「万歳!」(hurrah!) や「ブー!」(boo!)などの、ポジティブまたはネガティブな態度を表現するための表出的な用語を発明している。
      • 繰り返しになるが、ここでの「万歳!」は「私は承認する」(I approve)のような自己記述の文と同義語ではない。
      • そのため、情動主義者が表出と自己記述を区別したときに、情動主義者のこころにあったものを、「万歳」/「ブー」という例はよく表しているだろう。
  • 報告や語りと、真に認知的な判断に対してでさえ、これらの非認知的態度の表現との間のパラレルな区別を、私たちが作っていると表出主義者は考える。
    • 記述主義的主観主義が誤りに陥ったとどのように非認知主義者が考えているかを説明するために、この区別を用いることができる。
    • 単純な直接法の文が信念を表出するというのは、一般的なことである。
    • たとえば、「私の車は店にある」という文は、誠実に主張されるときには、「話し手の車が店にある」という信念を表出している。
      • 文の意味が、このような方法で信念を表現するのに適したものに文をしているのである。 * もしあなたが「私の車は店にある」という文を使うのなら、私はあなたがその信念を持つことを否定すること無しに、あなたに反対することができる。
    • 私がこれをできるということは、あなたの発言があなたの心的状態についてのことではなく、むしろ、車と店およびそれらの位置についてのものである、という証拠である。
    • だからここでは、記述的領域においてさえ、「それについて語ること無しに心的状態を表出する文」という、表出主義者のもとめるモデルを私たちは持っている。
  • 道徳用語の機能についての表出主義的、非認知主義的な説明を構成するために、このモデルを私たちが利用すると考えてみよう。
    • 「XはGである」という形の文がXはGであるという信念を表すのとちょうど同じ関係性において、道徳的な文が非認知主義的な精神状態を表出するという
      • 【自分用注】この文はよく意味が取れなかった。We’ll want to say that moral sentences stand to the noncognitive mental states they express in just the same relation sentences of the form ‘X is G’ stand to the belief that X is G.
    • これは、「ありがとう」という発話が誠実に行われるかどうかにかかわらず、感謝の態度を表出するのとパラレルである。
  • さらに、「XはGである」(X is G)という文によって表出される表出される心的状態と不一致である心的状態を表すために、「XはGではない」(X is not G)という、「XはGである」と矛盾する文が必要である。
    • ここで、同時に、「XはGではない」という心的状態を表出するために「XがGであるとあなたは信じていない」(You don't believe that X is G)という文は、必要とされない。
    • そのかわり、「信じる」という心的状態、つまりXはGであると受容する心的状態について語る文の「XがGであると私は信じている」(You believe that X is G)に対して矛盾する文として、「XがGであるとあなたは信じていない」という文が必要である(この文は実際にXがGであるかどうかについて語るものではない)。
    • この詳細を仕上げるのは見かけ以上に難しい作業だが、現在重要なポイントは、非認知主義者が「表出」に担わせたい役割を担う表出の整合的な観念が存在する、ということを示すモデルを私たちが手にしていることである。
    • 直接法の文の通常の主張は、態度について語ること無しに、態度の表出をすることを見越している。
    • そして、ある文S1を否定する文S2の主張は、私たちが不一致である態度について語ること無しに、その文S1が表出する心的状態に対する不一致を表出するのである。
      • 非認知主義者は、このモデルを非認知主義的な動機づけ状態や欲動的状態までに拡大させる。
  • 以上の特徴が非認知主義者にシンプルな主観主義者の正当な後継者の役割を主張することを許すものである点を、私たちが既に注目したポイントを再強調するために述べておこう。
    • 非認知主義者は、シンプルな主観主義者はある点では正しく、別の点では誤っていたと考えている。
      • シンプルな主観主義者らは、道徳用語の正しい説明に中心的でまさに本質的なものとして、ある態度やその表現を扱った点で正しかった。
      • しかし、シンプルな主観主義者は、それらが中心的であると考える方法の点で誤っていたのである。さらに、彼らは、道徳的判断がそれらの態度を表出した方法についても誤っていた。
      • 非認知主義者からすると、シンプルな主観主義者は、人が考えたり感じたりすることについて話したり報告するときに、その種類の表出に誤ってフォーカスしている。シンプルな主観主義者が注視すべきより直接的な種類の表出があると非認知主義者は考える。
    • こうしたより直接的な表出は、人が表出する態度を報告するものではない。それは、その人の態度に声(voice)を与えることによって、態度を直接的に表出するものなのである。
  • 非認知主義者は、問われている態度が認知的であるのではなく欲動的であると考えていると、ここまで私は述べてきた。
    • 非認知主義者はこれらの態度を指示するために、「道徳的信念」や「道徳的判断」という語を用いるが、欲動的な心的状態を踏まえると、この語の使用は不適切に見えるかもしれない。
      • 非認知主義者は、私たちがふだん、適切な道徳的態度を「信念」と「判断」と呼ぶことを認めているし、非認知主義者自身も自分たちでそうした話し方をする。
      • 彼ら非認知主義者らは、そうした使用に何の誤りも見つける必要がない。
      • しかし、「信念」をこの方法で用いれば、異なる種類の精神状態の間にある最も深い区別を捉えることができない、と非認知主義者は示唆するだろう。
    • 最も深いレベルでは、私たちが信念と呼ぶものは、二つの異なる種類のものとして見なされなければならない。
      • その二種類が、認知的で表象的な状態と、日常的には欲求と呼ばれる、非認知的で欲動的な状態である。
      • つまり、非認知主義者は道徳心理学や動機づけにおいて、ヒューム主義者(Humeans)なのである。
      • 信念と認知的状態という第一の心的状態は、物事がどう存在しているかを私たちに伝える点で表象的であり、真理に向けられていて、信念が世界があるとおりに表象している時には、それらの信念は真である。
      • 欲求や非認知的状態という第二の心的状態は、私たちを行為に動機づける。
      • もしそれら非認知的状態が何かを表象するのだとしたら、それらは目標(goal)を表彰し、これらの非認知的状態が物事がどうあるかにマッチしない目標を表象するなら、何も誤ったものはない。【自分用メモ】上手く訳を取れていない。2つめのifは名詞節かもしれない。'If they represent anything at all, they represent goals, and there is nothing wrong if these states represent goals that don’t match how things are'.
      • 正しい状況において、そのミスマッチが、私たちにその目標を満たすために世界を変えさせるだろう。
      • しかし、もし私たちがそのように世界を変えられないのなら、それゆえ、その非認知的状態は、欠陥があったり(defective)真でなかったり(untrue)することはない。
    • このヒューム的な図式の重要な部分は、二つのカテゴリーに何の重複もなく、精神の深い構造の地図が、心的状態の間の区別をなしていることである。
      • 動機づけ状態を信念として区分する日常言語どんな特徴も、日常の語りのゆるさをただ反映しているだけである。
      • そのような語りは、心をもっとも重要な単位で区分することに失敗している。
    • そのため、非認知主義者らはヒューム的図式を是認するのである。