Gibbard(1990)道徳の権威を説明しない理論には欠陥がある

Wise Choices, Apt Feelings: A Theory of Normative Judgment

Wise Choices, Apt Feelings: A Theory of Normative Judgment

第8章 「客観性:第一段階」pp. 153-155より。第1章はこちら

ある人が何かを合理的であると呼ぶとき、彼は単純に彼自身の規範のシステムの受容を表出する以上のことをしているようだ--実際のところ、私が第5章で記述した複雑な心的状態をを表出しているのである。彼は権威とともに話している(to speak with authority)と主張しているのである。;彼は彼自身がたまたま受容したり拒絶したりするものとは、無関係に真である何かを認識し報告していると彼は主張しているのである。何らかの意味で、彼の言っていることの「受容を強いる」(compel acceptance)ような熟考の保証を彼は主張している。もしかしたら、彼は誤っているが、それが彼のなしているまさにその主張なのである。この主張を無視するどんな彼の言語の説明も、欠陥があるはずである。それ[権威の主張を無視する説明]は、話し手が幻想抜きで主張できたであろう全てを捉えることができるかもしれないが、それは彼が実際に主張していることを捉えないだろう。それは関わっている概念の本当の分析ではなく、元々は牙を持っていた主張を和らげるひとつの方法になるだろう。*1

規範的な言語は確かに客観性に何らかの意味で関わっている--それは十分に明確に見える。*2

日常的な合理性の構想(conception)はプラトン的もしくは直観的であると考えられるかもしれない。プラトン的な図式では、世界の事実の中にあるのは、合理的なものと合理的でないものの事実である。規範的な精神的能力を持つ人は、こうした事実を識別することができる(discern)。合理性の判断は、それゆえ、知覚感覚(sense perception)を通じてではなく、知覚感覚と類比的な精神的能力を通じた、事実のまっすぐな理解である。何が合理的であるかについて断言する権威をある人が主張するとき、彼は自分の主張をこの理解の能力に基づかせているのである。*3

プラトニズムを除外してでさえ、私たちの日常的な合理性についての思考はある種の客観性の強い主張に関わっており、非プラトン的な主張こそが私の明らかにしたいものである。そこで、私の望みは次のようなものだ。合理性についての日常的な思考において明らかであるものを救い、合理性についての私たちの反省的な思考がかなり明らかで十分に改訂可能であることを判明させることである。ひとつの例外をのぞいて--プラトン主義に対すして惑わされる私たちの嗜好をのぞいて。*4

客観性の問題とは何なのだろうか。ひとつの形では、私が述べたように、その問いは単にプラトン主義の説明が正しいかどうか、である。しかしながら、他の重要な問いが、この[プラトン主義の]ものと混同されるかもしれない。プラトン主義にはその魅力があり、この魅力は疑いようもなく日常的な思考の特徴から生じてきたものである。;これらの特徴についての問いは、事実上、客観性の問いの変形版である。私はこの種類の広い問いには、少なくとも3種類があると思う。第一に、ある規範が合理性の要件を構成するものとして受け取る人はだれでも、その規範が彼自身の受容とは独立に適用されるものとして受け取っている。彼がその規範を拒絶する場合でさえ、その規範がそのまま妥当であると彼は考えているのである。第一の問いは、これが何を意味しうるか、である。第二に、合理性の要求として何かを受容することとそれ[受容される規範]に対し何か特異で実在的なコミットメントをなすこととの両者を、私たちは見分けているようである。この区別を構成している何らかの意義があるのだろうか。最後に、ある人が何かを合理的であるとか非合理的であるとか断言するとき、彼は何らかの権威を主張しているようだ。彼は、彼の意見を公共の監査のもとに単に晒しているのではない。それだけでなく、彼の意見が間個人的に(interpersonally)妥当であると彼は主張しているのである。権威へのこの主張の本性は何であろうか。これらが私の探求したい問いなのである。*5

*1:p.153

*2:p.154

*3:p.154

*4:pp. 153-154

*5:p.154