Prinz(2007)文化人類学の観察は道徳相対主義を支持する

5.2 相対主義への反論

5.2.1 記述的相対主義

現在の私たちが非難に値すると考える例

  • 道徳的価値の多様さのサーヴェイをPrinzは提示する。こうした例は、他の文化に属する人が私たちにとって常軌を逸しショッキングで残虐な方法で振る舞う証拠となる。こうした例から、道徳的価値が文化に相対的であると推論するのは当然である。
    • 二種類の食人:Mortuary cannibalism, warfare cannibalism
    • ローマで500年続いたコロシアムの闘技
    • 性への態度の多様性
      • 結婚形態や女性の性生活、近親相姦、同性愛、小児性愛、獣姦など。世界的な差異が著しい。
    • 嬰児殺し(infanticide)
  • 記述的相対主義はメタ倫理学相対主義の重要な第一前提である。しかし、記述的相対主義には以下の3つの批判が考えられうる。

反論1. 文化差は誇張?

  • 文化による差異の中には、誇張されているものがあるのではないだろうか? 実際の詳細な文化実践を観察すれば、むしろ二つの文化の一致を示唆する場合がある。
    • 例: ローマ人のコロッシアムへの執着は、現代の私たちのアメフトやボクシング、残虐な映画への執着と同じではないか?
  • 再反論:文化差は深刻なほど誇張されている訳ではない。実際のところは、私たち自身の価値を客観的に見ることが難しいために、他の文化の価値がどれほど異なりうるかを分かることが難しくなっているだけである。
    • ローマ人にとっての暴力的な死の観賞は有徳さでさえあったが、これは現代人が暴力を楽しみのために見ることとは大きくかけ離れている。

      ローマ人と同様に、イタリアの政府が公衆の面前で人々がお互いに殺しあわせるように決定した場合、何が起きるか考えてみよう。膨大な国際的非難が寄せられるだろう。暴力的な映画はスナッフ映画とはかけ離れている。ありえないことだが、もし非難が落ち着き人々が熱狂とともに血まみれのスポーツを感染しだしたらどうだろうか。これでも、私たちがローマ人と価値を共有したとは言えない。ローマ人は独特の文化的状況によって形成された複雑な道徳的見解を持っていたのだ。

    • 嬰児殺しの場合も、やはり文化的な差異は顕著だ。現代のアメリカ人が生存のために嬰児殺しを行う場合は恐怖と道徳的ジレンマに苛まれる。一方、イヌイットはより気楽な態度で嬰児殺しを行う。

反論2. 非道徳的事実に基づいた不一致がありうる?

  • 記述的相対主義は、人々が同じ事柄に対して異なる道徳的感情(sentiment)を持つという見解として定義されうる。しかし、もしかしたら、人々が非道徳的(non-moral)な事実を全てが知れば、根本的な道徳的対立は解消されるのかもしれない。その場合、本当に異なる道徳的感情を人々が持つのかは疑われ、記述的相対主義も疑われうる。
    • ヒューム自身は相対主義者ではなかった。彼は、人間の共有された本性があるために、道徳的なコア価値を全ての人間は共有していると考えていた。そのため、道徳的な不一致は非道徳的な事実から生じるとヒュームは考えていた。
    • アテネの人々が同性愛を是認していたのは、同性愛が友情や共感を促進するということを「馬鹿げたことに」誤って信じていたからだと、実際、ヒュームは考えていた。
    • 同様の「事実の誤認」説明が有効に見える例; 女性参政権に対する反論(「女性は知的レベルが低い」)、アステカ人にとっての生け贄(「太陽を動かし続けるためには人間の生け贄が必要」)等。
  • 再反論:一部の道徳的対立が事実の誤認に基づいているのは確かかもしれないが、全ての道徳的対立がそうであるとは言えない。ある道徳的実践を擁護するための事実に基づく論証は、しばしば事後的(post hoc)である。
    • 道徳的議論を事実の信念に固定するのは難しいケースがある。万が一獣姦に関わる動物が人間との性交を楽しんでいると発見されることがあったとしても、私たちは獣姦を誤りであると考えるだろう。この観点では、道徳の議論は味についての議論のようなものかもしれない。
  • 再反論:さらに、事実/価値という区別も難しいケースがある(「胎児は人格か」という妊娠中絶での問いが、事実的な信念に依拠している訳ではないと判明する可能性がある)。

反論3. 異なるのは信念である?

  • Moody-Adams(1997)は根本的な道徳的議論が確立されたケースはひとつもないと主張した。二つの文化的グループが同じ出来事について異なる道徳的判断を行っているとと私たちが見なすのであれば、私たちは彼らが同じ「状況的意味」を帰していることが確かだと信じられないはずである。私たちが他の文化を考慮するとき、他の文化の人々が事実をどう解釈しているかを私たちが理解することは難しい。世界についての信念は、私たちになじみのない環境に対して全体論的に決定されるのである。
  • 再反論:Moody-Adamsの非道徳的な信念についての相対主義を支持するこの路線は、記述的相対主義をも支持するはずだ。
  • 再反論:ある程度同じ文化を共有するサブ文化圏の人々でも、異なる道徳的見解を持つ場合がある。この場合、彼らが世界を根本的に異なる方法で解釈しているとは考えにくい。
    • サブ文化圏の3つの例。アメリカにおける保守とリベラルの対立、男性と女性の道徳における性差、南部の白人と北部の白人の暴力性の差。
    • 同様のことは、義務論の哲学者の家庭で育つ子どもと帰結主義の哲学者の家庭で育つ子どもの思考実験でも例証できる。彼らは、「正しい」と判断する行為について不一致であろう。

ヒュームの提示した根本的なコア価値のアイディアは妥当ではない

  • 詳細な議論は第7章で行うが、ここまでの論証でもコア価値の仮定が疑わしいと主張することができる。
  • コア価値とは、私が基底的規範(grounding norms)と呼ぶ、他者への心理的な訴えに左右されないものである。道徳的な価値観は成長の過程で環境により左右されるので、基底的規範が固定されているとか徹底的であるということは導かれない。
  • 同性愛が事実の十全な認識を経ても生じるということをヒュームは疑問視していた。しかし、この点に関しても、共同体における成長の課程で基底的規範を人々はたたきこまれ、その結果として同性愛をめぐる議論が生じると説明できる。それゆえ、事実的信念が多様であるために道徳的議論が生じる、と説明する必要はない。人々は異なる根本的価値を文化に応じて持つのである。

5.2.2 整合性(coherence)

不整合性の反論とは

  • メタ倫理学相対主義への標準的な反論のひとつは、不整合性に関するものである。その問題がなぜ生じるかは、メタ倫理学相対主義の定義を確認すると理解しやすい。再掲しよう。
  • メタ倫理学相対主義: 道徳判断の真理条件は、その判断が形成される文脈に応じる。
    • もしこの定義が正しいとすると、同じ判断が真であり偽である、ということがありうる。
    • たとえば、「食人するのは善い」という判断をJとすると、アステカ人はJを真に(truely)に発話ことができ、私は「Jでない」(not J)を真に発話することができる。それゆえ、「JかつJでない」は真である。しかし「JかつJでない」は矛盾である。矛盾を伴立するどんな理論も偽である(cf. Lyons, 1976)。
  • Prinzの提案する抜け道:道徳判断は文脈に応じて評価されなければならない。私とアステカ人のそれぞれの発話によって表現される命題は別のものである。それゆえ、異なる文脈で発話された場合には「J」と「Jでない」は矛盾ではない。

デイヴィドソンの論証を利用した反論

  • 内容相対主義が真であれば、文脈の変化は道徳用語の意味を変化させる。しかし、そうした変化が生じるのなら、異なる文化のメンバーが「よい」という語を発したからといって、それが「よい」という語と同じことを意味しているかどうかの確証がなくなるのではないか。
  • Davidson(1974)の論証の一部がこの種の反論にあてはまる。
    • 同じ世界を記述するのに共訳不可能な2つ以上の概念枠が並立しうる。デイヴィドソンによれば、文が有意味であるのは真理条件を持つ場合のみであり、その真理条件はタルスキのT文を用いて確定される。ひとつの概念枠における真理条件は、私たちの理解する言語に翻訳される場合のみ有意味である。しかしここで仮定より、もう一つの共訳不可能な概念枠があれば、その概念枠の文が意味を持つと考える根拠がない、ということになる。それらは、私たちの言語で翻訳可能であるか、単なる音であるかのどちらかなのだ。
  • Cooper(1978)ではデイヴィドソンを利用し相対主義の批判がなされている。
    • 「約束をやぶることはよい」と述べる人に私たちが遭遇した場合、私たちはまずこの人が根本的に異なる道徳的概念枠を持つということである。
    • しかし、私たちの悪いとみな対象に「よい」という語を適用するというまさにその事実が、私たちがその人が言っていることを理解したと思っているその自信を傷つけるのだ。
    • 道徳的な概念枠の違いがより根本的であれば、私たちは理解不可能であっただろう。

再反論

  • 道徳相対主義に対するデイヴィドソンの論証は、二つの疑わしい想定に左右される。
  • 第一の想定は、発話は私たち自身の語彙に翻訳される場合のみ有意味であるという想定である。私はこの想定を拒否しよう。
    • 私は既に、デイヴィドソン的な解釈に左右されずに決定される意味を概念がどのように獲得するか、という説明を支持してきた。この見解では、概念は、差し向けられるように組み立てられたどんなものも、意味することが可能である。ただ、これはデイヴィドソンに対しドレツキを完全に擁護するものではない(e.g., Sterelny, 1990)。
    • 私がただ指摘するのは、デイヴィドソンの原則が強い形態の検証主義を構成する、ということだ。例えば、彼の見解に従うと、動物が有意味な心的状態を何ら持たないということになってしまう。
    • 他の文化圏の道徳的言明を無意味と捉えるデイヴィドソン流のアプローチとは異なるものが必要だろう。
  • 第二の想定は、異なる文化圏の「よい」を理解できるのであれば、私たちは彼らと同じ概念枠を共有している、という想定である。
    • 私たちは、相手の感情の発露を観察すれば、ある程度道徳用語の使用を特定することができるはずだ。
    • 私は、道徳的な概念が感情的(sentimental)であると論じてきた。何かを誤りであると信じることは、その対象に対し感情的な傾向性を持つことだ。ここでの怒りや嫌悪、恥といった知覚可能な感情は、別の文化の誰かが何かに対して道徳的態度を持ってるかどうかを決定するのに役立つのである。
      • 例:頭部を隠さない女性が軽蔑され、恥を感じる文化がある場合。そんな女性をこの文化ではgonakharと呼ぶ場合。私たちは、それが英語の「誤りである」"wrong"に関連する語だと類推するだろう。
    • ただ、道徳的な差異があまりに激しければ、こうした類推は成立しないかもしれない。しかし、多くの状況では、違いはそれほど極端ではないのだ。ほとんどの文化はある程度、それらの感情を受容において重なりあうものである。重なりあいがミニマルでも、道徳的な感情の様々な表現に応じて十分に類推することができるだろう。

意味特性と意味内容の区別

  • デイヴィドソンに対するこの再反論は、内容と意味特性characterの区別に訴えることによって、より正確になすことができる。
    • 異なる文化では、意味内容は別だが、同じ種類の感情を表現するため意味特性は同じであると述べることができる。
  • もう一つ答えなければならない疑問は、「私たちは他の文化圏の道徳用語の使用を私たちの道徳用語の使用へと翻訳することが可能だろうか」という問いである。
    • この問いに対する答えは、翻訳という語の定義に左右される。
    • 翻訳を弱く捉えた場合。
      • 「誤りである」という語は、内容に対する否定的な感情と話し手の文化から生じる機能である。
      • この翻訳基準を満たす語は、多くの文化・言語に存在する。
    • 翻訳を強く捉えた場合。
      • 「誤りである」という語は、同じ内容と意味特性を持つ、とされる。この場合、「私」という語は同じ内容を持たないのでこの基準に当てはまらず、道徳用語もまたこの基準に当てはまらない。
      • もし私たちが別の文化圏の道徳用語をパラフレーズした場合、私たちの道徳的感情を表現せず、それゆえ、意味特性もまた変わっている。
      • このように、翻訳を強く捉えると、道徳的な共訳不可能性は完全に可能である。
  • 以上で見てきたように、道徳的なボキャブラリーが不整合であるという考えに、不整合なものは何もない。

5.2.3 指標詞性

  • デイヴィドソン的論証に対応した際に、私は内容相対主義に訴えた。しかし、道徳用語は、必ずしも「私」といった代名詞や「これ」のような指示代名詞などの指標詞とは、必ずしも同様の意味論的な機能を持たない。そこで、私の内容相対主義に対しては、この点を批判する反論が考えられるだろう。
  • 文脈依存性へのCappelen & Lepore (2005)による反論。
    • 「雨が降っている」("It's raining")という文を考えてみよう。この文は明示的に場所を言及する訳ではないが、どこかで雨が降っていることを含意する。内容相対主義者の一部は、この文が隠れた指標詞を含むと主張する。
    • CappelenとLeporeは、一連の指標詞性テストを利用して、「雨が降っている」が実際には場所を指示するどんな要素も含まないと異議を述べた。場所についての情報は語用論によって伝達されるもので、文の意味の統語論の一部ではない、と彼らは主張するのである。 *「雨が降っている」についての彼らの議論に対しては、私は特に反論を行わない。しかし、道徳的相対主義が依拠する文脈依存性には、彼らの論証を踏まえたさらなる議論が必要であることは認めなければならない。
    • 二つの対応が可能である。第一に、ある名辞における文脈感受性は、特別な統語論的要素を導入するものではなく、意味論的な評価のレベルではじめて生じるものである、と主張する戦略がある。この選択肢は真理相対主義においてもまた擁護可能だが、本節で私は取り上げない。
    • 第二に、実は道徳用語は隠れた指標詞性テストを通過することができるのである、と主張する戦略がある。私は本節でこちらの戦略を取り上げよう。

照応テストを考察する

  • 道徳用語には隠れた指標詞的性質があるという説明のもとでは、「カニバリズムは誤りである」と言うことは、「評価者と聞き手の価値体系によれば、あなたはカニバリズムに関わるべきではない」の簡略表現であると考えられる。
  • この説明が正しければ、文脈を指示する隠れた統語論的要素は、明らかな指標詞が通過するものと同じテストによって、検知可能であるはずだ。
    (1a) 彼は上院議員である。(He is a senator) (1b) 彼は彼自身を好きな上院議員である。(He's a senator who likes himself)
    (2a) それはテーブルである。(That's a table) (2b)それはテーブルではあるが、それは本ではない。(That's a table but it is not a book)
  • このように、「彼」や「それ」といった指標詞は、適切な照応関係のもと、同じ対象を指示する表現を付け加えることができる。しかし、道徳的文は、一見したところ、こうした指標詞テストを通過しない。
    (3a) カニバリズムは誤りである。(Cannibalism is wrong) (3b) *カニバリズムは誤りであるが、彼らは知的哺乳類を食べる。(Cannibalism is wrong, but they do eat intelligent mammals)
  • 隠れた指標詞性の説明では、(3a)には「沈黙の個人の価値体系によれば」のような注釈が可能な要素を持つ、とされていた。(3b)における「彼ら」はこれらの個人を照応的に指示するよう想定されている。しかしながら、この文(3b)が奇妙に聞こえるため、道徳的文は照応テストを通過しないと考えられる。
  • この失敗は、単に見かけだけのものであると私は主張しよう。
    • ここまで、私は明示的な内容のない道徳的文は、デフォルトではその文を発話する評価者の文脈を指示するように受け取られると述べてきた。(3b)の2つめの節における三人称代名詞の「彼ら」が奇妙に聞こえるのは、1つめの節を聞く人の想定する適切な文脈が、話しての文脈であるためだろう。つまり、ここでの失敗は統語論的ではなく、意味論的なのである。
      (3c) カニバリズムは誤りだが、私たちは知的哺乳類を食べる。(Cannibalism is wrong, but we do eat intelligent mammals)
  • (3c)は有効である。一人称の代名詞は照応的に用いられないので、これは照応テストの通過を示す直接の証拠ではない。しかし、この観察の示すものは、むしろ、道徳的な文が本質的に照応テストの通過が難しい、ということである。
    • たとえば、(3b)は食人を観察する文化人類学者のフィールド・ノートに書かれていると想定すれば、理解可能である。
    • もちろん、文化人類学者が指示代名詞的に「彼ら」を用いていると想定することも可能だし、この場合、私は再び照応テストは道徳的文において難しいと結論せねばならなくなる。
    • しかし、(3b)を照応的に読解することが可能な場合があると、私は示唆しておきたい。

アプリオリ性テストを考察する

  • Cappelen とLeporeの提示したもう次のテストは、(3)のようなアプリオリに知られうる文をつくるために、明示的な指標詞は用いることが可能である、というものである。
    (4)私は、この文を発話する人である。(I am the person who utters this sentence)
  • しかし、道徳的文の以下の例はアポステオリであるように見える。

(5) もし殺しが誤りなら、それは殺すことは私の価値体系に反している。(If killing is wrong, then it is against my value system to kill)

  • 殺しの誤り性は、私に依存していないように思われるため、直観的にこの文は妥当でないように思われるかもしれない。そのため、これは強力な反例に見えるだろう。
  • しかし、私の見解では、「誤り」であることは、話し手その他の沈黙の個人に相対化されることを思い出してほしい。文(5)が偶然的、もしくは偽であるように見えるのは、「誤りである」という語が話し手以外の誰かに相対化されうるためである(「あなた」を想定することも可能である)。
    • また、話し手に文脈を固定するとすれば、(5)はアプリオリに導かれるだろう。
  • また、CappelenとLeporeは、明示的な指標詞には矛盾が可能であるが、隠された指標詞はそうではない、と論じている。
  • 道徳的文の場合でも、指標詞と同様の矛盾は当てはまりうるだろうか。(9)の文は、矛盾であると読解することが可能である。
    (9) 殺しは誤りであるが、それは私の価値体系に反していない(Killing is wrong, but it is not against my value system to kill)
  • この文は、「雨が降っている」という文とは異なる仕方で、確かに矛盾している。この事実は、隠れた指標詞という説明を支持するものだろう。

発話者の相対性を擁護する

(10) ジョンが「私は腹がへっている」と言ったとき、彼は真に話したが、私は腹がへっていなかった。(When John said, ‘‘I am hungry,’’ he spoke truly, but I was not hungry.)
(11) * Moctezumaが「あなたは囚人を食べるべきだ」といった時、彼は真に話したが、あなたは囚人を食べるべきではない。(When Moctezuma said, ‘‘You ought to eat prisoners,’’ he spoke truly, but you ought not to eat prisoners.)

  • 道徳的文(11)は、受容可能な指標詞を含む文(10)と比較すると、非常に奇妙に聞こえる。このことは、道徳用語の意味が文脈からの意味を獲得するという、相対主義に必要なことを示唆しないようだ。
  • この反論も克服可能である。
  • 道徳用語には、Stevenson(1937)が動的(dynamic)レベルの意味と呼ぶ、感情を表出(express)する意味がある。彼の述べる通り、私たちは道徳用語をある文脈で用いるとき、それらの名辞に根付いた感情を表現することなしではすまされないのである。私たちはこうした感情を表出するとき、是認を伝えている。
    • しかし、他者の道徳的主張が真であると私たちの言うとき、私たちは是認を伝えるのである。私たちは、他者の道徳的見解への感情的コミットメントを感じることなしに、他者の見解を是認することはできない。そして、このことは、意味の動的レベルを再導入する。
    • 私たちが「真」という語を表出的名辞に用いる場合、私たちはそれらの記述的な意味とそれらの動的意味の両方を是認している。それゆえ、(11)の問題は語用論的なものである。
  • また、この現象は道徳的言説に限られず、「おいしい」(yummy)という語にもあてはまる。
    (12) * ジョンが「はらわたはおいしい」と言ったとき、彼は真に話したが、「はらわた」ははおいしくない。(When John said, ‘‘The tripe is yummy,’’ he spoke truly, but tripe is not yummy.)
  • 私の耳には(12)は(11)と同じくらい奇妙に聞こえる。しかし、このことは、「おいしい」がその意味が文脈的に補完される、総体的な名辞である、ということを非難するわけではない。私は、これらが語用論的に奇妙であって、意味論的な矛盾ではない、と提言したい。
  • 語用論的な解釈をテストするためには、感情的是認の意味をキャンセルする方法を見つける必要がある。次の文を見てみよう。
    (13) Moctezumaが「あなたは囚人を食べるべきだ」といった時、彼の言うことは彼の価値体系において真であるが、あなたは囚人を食べるべきではないと私は考える。(When Moctezuma said, ‘‘You ought to eat prisoners,’’ what he said was true in his value system, but I think you ought not to eat prisoners.)
  • (13)は私の耳には矛盾ではないように聞こえるし、そのことは私の相対主義とも整合的である。
  • 実のところ、(13)は隠れた指標詞性要素を明示的にするものである。(11)には評価の文脈における両義性があった。(11)を話し手の是認であると捉えると、(11)は確かに矛盾である。しかし、その含意が(13)ではキャンセルされているので、(13)は矛盾でないように聞こえるのである。実際、(13)で明示化された解釈を考慮した後では、(11)はもはやそれほど悪く思えないだろう。このような読解が可能であれば、道徳用語はやはり隠れた指標詞性テストを通過する、ということになる。
  • 反論:もし隠れた指標詞説明が正しいのであれば、道徳客観主義を主張する人など存在しえないのではないか。
    • 再反論1: 私たちは常に言語の構造にアクセスできるわけではない。
    • 再反論2: 隠れた指標詞説明でも、心独立的な道徳の特徴を説明できる可能性は残っている(私とあなたの両方が何かを誤りであると見なす場合、など)。