Gibbard(2006)Thinking How to Liveの主張をまとめる

Thinking How to Live

Thinking How to Live

Gibbard, A. (2006). Précis of "Thinking How to Live" Philosophy and Phenomenological Research, 72(3), 687-698.

2006年に雑誌'Philosophy and Phenomenological Research'上で、A. Gibbardによる2003年の著書『どう生きるべきかを考えること』をめぐる書評特集が掲載されました。本記事では、Gibbardがこの特集の冒頭で著書を要約したものを全訳(2016年10月19日訂正。途中で挫折したため)抄訳しました。Gibbardによるこの要約では、各章ごとの彼の主張が12ページにわたってかなり詳細にまとめられているため、決して読みやすい本ではない彼のもとの著書を理解する上で有用だと思われます。後の書評では、Simon Blackburn、Jamie Dreier、T. M. Scanlon等がコメントを行っています。彼らに対する同特集におけるGibbardによる応答の中では、Gibbardの意味論が許可の態度を表すことができるのか、という点が既にひとつの論点になっており、後にSchroeder(2008)が先鋭化した否定問題の萌芽が見られます。
ちなみに、同誌'Philosophy and Phenomenological Research'では、Gibbardの1990年の著書『賢い選択、適切な感情』についても、1992年に書評特集が組まれていました。

『どう生きるべきかを考えること』の要約 [Précis of "Thinking How to Live"]

はじめに

  • what to do*1という事実は存在しなさそうだ。[しかし、]人がすべき(ought)ことが何か、は別の事柄である。:そうした事実が存在するかどうかは論争的である。この本の仮説は、二つのものが同じものに相当する、というものである:つまり、人が何をすべきかの問いは、what to doという問いである、と。私の提案では、べきという概念は、この名辞の全ての意味に対してではないが、規範的な概念において特徴的である重要な意味に対しては、こうしたパターンによって説明が可能である。:たとえば、道徳的な概念や、合理的であったり、信頼できる、恥ずかしい、うらやましいという概念[等に対して説明が可能である]。たとえば、賞賛に値する(what's admirable)ものが何かを考えることは、何を賞賛するべきか(what to admire)を考えることであるし、何が信頼できるかを考えることは何を信じるべきかである。この場合、どんな特別なミステリーも規範的な概念にはない;私たちはそれらを説明するために「非-自然的特質」(non-natural qualities)に訴える必要はないのである。もしwhat to doを結論付けることを私たちが理解するなら、私たちは何をすべきかを結論付けることも理解するのである。
  • それでは、「べき」たち(oughts)は、事実の問題(matters of fact)ではないのだろうか?事実という名辞のミニマリスト的な意味では、もちろん、ある人が何をすべきかの事実は存在する。この本では、「事実」にもっと多くを要求する意味があるかどうか、または、「真」という語がミニマル以上の意味を持つかどうか、については、不可知論的である。しかしながら、この本のねらいは、what to doの事柄は、多くの方法で、慣れ親しんだ、論争の無い事実のように振る舞う、ということである。
  • 私の以前の本『賢い選択、適切な感情』(1990)から、私は中心的なテーゼを保持したままである。しかしながら、私はよりより乏しい資源とともに説明をはじめ、さらなる帰結を私は導き出した。私の以前の説明では、現実的で、自然的な人間の心理学に、推測的試行を当てはめた。より新しい[この]本では、what to doを--今と不測の事態(contingencies)において--考えることのできるプランナーとしての私たち、のみからはじめる。このありのままの開始地点から、慣れ親しんだ規範的現象が出現するのである。私たちは、どのようにべきたちが自然のであるたち(iss)に「付随」(supervene)するかがわかるのだ。ある種の自然主義がさらなる結果である:私の結論では、the things to do であるような、広い意味で自然的な性質が存在する。帰結するシステムはG. E. MooreとA. C. Ewingの非自然主義を極めて擬似するものになる。私は、この本が、Simon Blackburnが実在論(quasi-realism)と呼ぶ形態の私たちの共有するプログラムであると考えている:規範的事実を除外し、人間性を自然の部分として扱う基礎から、それ[準実在論]は規範的な実在論者の主張と同様に振る舞う規範的な概念をなぜ私たちが持つのか、を説明する。とりわけ、私は批判者がこうしたプロセスの方法で進まなければならなかったような、異議に[この本で]取り組んだ。

第I部

第1章. イントロダクション:可能性の証拠

  • 道徳的主張(assertion)は事実を言明するのだろうか--特別で、非自然的な種類の事実を。あるいは、それらは、まっすぐの(straight)な事実の信念ではない、態度やその他の心的状態を表出するのだろうか。私たちは決定についてのパラレルな事実を想像することができるだろう:ホームズがモリアーティから逃れる際に「今すぐかばんの荷造りをしろ」と自分自身に言ったように、決定は命令法としても、表現されることができる。または、それはまっすぐな主張として、「私はいますぐ荷造りせねばならない(must)」とまとめることもできる。私たちがJ. L. Mackieとともに心配するかもしれないが、その[ねばならない]の主張は、荷造りに「されるべき性」(to be doness)という神秘的な性質を帰属(ascribe)する--一方で、命令法はそうしたことを全くしない。私たちはいま議論ができるが、特別な「ねばならない」の事実が存在するのか、それとも、「ねばならない」の主張は単にwhat to doについての結論を表出するのだろうか。このパラレルな論争から始めることは、道徳的な理論のやっかいな問いのひとつを避けることである。というのは、多くの哲学者たちは「外在主義者」だからである:人が道徳的にすべきである(ought to do)と結論することは、彼らの考えることによると、what to doの問いを開かれたまま(open)にする。私たちはwhat to doについて外在主義者ではありえない;what to doの結論は、行為との自動的な関係性を持つからである。私たちは次に尋ねることのできるのは、「ねばならない」や「べき」のような名辞(terms)が、「内蔵型のされるべき性」(built-in to-be-doneness)に、何らかの特別な種類の性質を帰属させるものとして最善に説明されるのか、what to doを言うための名辞として最善に説明されるのか、ということである。この本は後者の仮説を発展させる。

  • 最初のプロジェクトは、可能性の証明(証拠、proof)である。:私は、決定を表出するための名辞を持つ言語が可能であるということを示す。私はまた、そうした言語が、見慣れた規範的言語と同様に機能するということを示す。哲学者の中には、事実のように見える言語は、私の記述する方法では決して機能しないと主張するものもいる。否定や選言、そうしたものは、彼らによれば、そうした[表出主義的な]言語において、説明がされえない。しかしながら、実際の言語が私の提供する説明に適合するかどうかにはかかわらず、それ[表出主義がふつうに機能する]ということは少なくとも可能である。私はいくつもの章をこのことを示すことに割いた。私の約定された(stipulated)言語のために、私は、「the thing to do」という名辞を用意し、what to do についての結論をそれに表出させる。結論として、たとえば、今すぐ荷造りすることがthe thing to doであるということは、荷造りについての決定である。私の約定は、不測の事態へのプラン(プランニング for contingencies)--Holmesが苦境plightにいるような過酷な仮定的不測の事態にさえ--へと延長される。荷造りがホームズのすべきことだと結論することは、私の約定では、ホームズと正確に同じ状況にいるという不測の事態へのプランである。

  • 私の示そうとするものは、そうした言語が少なくとも可能であり、そしてそれがかなり事実らしい(fact-like)な方法で動作(operate)するだろう、ということである。説明における心的状態(states of mind)は、広い意味では、プランニングの状態である。:[つまり、]予知されたものであれ仮定的にであれ、様々な不測の事態におけるwhat to doについての結論である。[私の]説明は、これが「the thing to do」の言語を、結果として、何らかの種類の事実における信念ではない、心的状態の表出として、説明するという点で、表出主義的expressivisticである。

第2章. テンプレートとしての直観主義: Mooreを校訂する

  • この本の究極の狙いは、もちろん、私たちの実際の言語と思考を説明するのに役立つことだ。規範的な概念に対しては、その場合、私は適合するテンプレートという、私たちの言語と概念が働く方法を必要としている。私のテンプレートは肯定されたMooreである。彼の「What’s at issue?」論法は、倫理的そして他の規範的概念について、分析的自然主義を論駁する。それ[What’s at issue?論法]が指摘するのは、これらの[規範的]概念が、同じ価値がある[amount to]と人々の主張する様々な自然的概念と著しく異なっている(distinct)、ということである。しかし、それ[What’s at issue?論法]の論駁する自然主義は、規範的な概念に対してであり、規範的な名辞の表す(signify)性質に対してではない。Mooreの論法は、規範的な性質は自然的性質と際立って著しく異なっている、ということを示さない。実際、私たちは、Mooreの”the good”と呼んだものという、’good’という名辞によって表された性質が、自然的性質である、と言うことができる。その性質こそが、必然的に、全てかつ唯一のよい物事の持つものなのである。Mooreの呼んだ”the good”という、’good’という名辞によって表される性質は、自然的性質である。テンプレートは、その場合、性質に対して自然主義で、概念にに対して非自然主義である。(規範的な概念はgoodではなく原始的なoughtであると考えることによって、私はまたMooreを離れEwingに従うことになる)。

第II部 The Thing to Do

第3章. プランすることと除外すること:フレーゲ・ギーチ問題

  • 「the thing to do」というフレーズをプランを表出するための装置として私は約定する。これは”フレーゲ・ギーチ”問題をもたげさせる:どのように、標準的な論理的推論を妥当にするような方法で、より大きな文脈においてそうしたフレーズは埋め込まれる(embed)ことができるのだろうか? よい答えは哲学的文献において既に表れており、私はそのversionを提供する。例として、プラン-負荷的な選言である、「Moriartyは既にここにいるのか、または、the thing to doはpackすることだ」を考えてみよう。これは、その意味を、事実と、それ[事実?]プランの組み合わせから引き出している--この場合では、単一のそうした組み合わせである:[つまり、その組み合わせとは、]Moriartyがまだここにいないと考えること、と、しかし、packingを拒絶するrejectことである。私の提案することは、一般的に、プラン-負荷的な構成は、プランと平凡な信念の組み合わせのひとつ、または、それ以上を除外するrule out。ある推論は、前提を受容することと、結論を拒絶すること[の両方]が全てのそうした組み合わせを除外する場合、その場合のみ、論理的に妥当である。

  • 問題のプランは、並外れて仮定的である不測の事態に対するものであってもよい。Hudson夫人にとって、警察に行くことがthe thing to doではない、とHolmesが考えると想像してみよう。彼はそれによって、Hudson夫人とちょうど同じ状況で彼女であること、という不測の事態に対する計画を除外しているのである。(確かに、彼は必然的にHudson夫人ではない。しかし、David Lewisが私たちに教えるように、プランは性質の自己帰属self-attributionにあり、そしてHolmesは、Hudson夫人であること、という性質を仮定的に自己帰属させることができる)。Hudson夫人の状況のひとつの特徴は、彼女は実際に警察に行くだろうということであるが、Holmesはそれでも、彼自身が、その状況にあれば何をすべきかwhat to doかをはっきりと尋ねることができるし、警察に行くことを拒絶することもできる。

  • もし全ての構想可能な不測の事態に対して、まったく完全なプランを想像することによって、私たちはこれら全てを理想化することができる*2。これをハイパープランと呼ぼう。物事がどのようにハイパーステートを形成することになるか、についての、完全に決定された心的状態とそれ[ハイパーステート]は、つながる。

  • この段階で、私たちは重大な洗練が必要となる。私たちは、選択の二つの方法を区別せねばならない:無関心indifferenceから[の選択]と選好preference[の選択を]。もしビュリダンの[ロバ]よりも賢いロバは、港の俵のうちのひとつを選んだとしたら、彼女は、重要な意味において、それでももう一方を除外したりまたは拒絶したりすることは、それでもなかっただろう。プランは、その場合、選択肢を許可し、他のものを除外するのであり、そうしたプランでは、許可することはある種の除外なのである。許可することの除外するものはこうだ:選好から選択肢を拒絶することを除外すること。私は「okay」という名辞を許可することに対して約定する:ある選択肢がokayだと信じることは、それをそれ自身として許可することなのである。

第4章. 判断、不一致、否定

  • この章では、こうしたプログラムに対して掲げられてきた反論が取り組まれ、そして、プランニングのどんな特徴がquasi-realismに適するのか、尋ねられている。第一は、真理である:プラン-負荷的な言明は、ミニマルない見で真偽だろう。窓から飛び降りることがthe thing to doであるというのは偽である--そして、これが偽であるということは、窓から飛び降りることは、the thing to doでない、と言うことである。この本では、私は「真」trueをこうしたミニマルな意味で用いている。その[真]という名辞のより厳しい意味があるかどうかに関しては、私はこの本では不可知論的agnosticである。論理は真理の観点から説明されるべきではないという点で私はHorwichに同意する、そして、「フレーゲ・ギーチ問題」に対する私の解決策は、論理のためのalternativeな基礎を提供している。

  • しかしながら、Horwichは、そのような解決策は必要とされていないと論じる:私はその代わり、the thing to doであることの帰属は、不測の事態のプランwを本当に表出するためのものであり、「is the thing to do」は述語であるとただ言うことができる。Drierの論じるところでは、ある名辞が述語であると私たちは必ずしも約定できるわけではない。たとえば、私たちは以下のような’hiyo’という名辞には意味を与えることができない:”Bob is hiyo”はこう特定される;”Hey Bob!”があいさつに使われるように、’is hiyo’というフレーズが述語であると宣言するのである。私の論じるところでは、これと[この著作で]私のしていることとの間にある違いは、二つの特徴にある。第一に、その述語は、信念や是認といった、心的状態を表出するために用いられなければならない。第二に、心的状態は私たちが一致agree withしたり不一致disagree withしたりできるものでなければならない。人はプランに不一致であることができるし、そしてこのことはプラン-負荷的な述語を可能にするものである。そこで、私が原始的なものとして扱う観念は、不一致の精神的操作である。これを私たちが私たちのプランを精緻にする際に私たちの行う何かとして、私たちは認識することができる。それを定義されないまま用いることは哲学的な盗難theftに見えるかもしれないが、否定を原始的として用いている通常の慣習においても、同じことが言える。一体一方が不的確であり、もう一方がそうでない、ということがあるだろうか?

  • 断定assertionとともに人の表出する心的状態とは何だろうか?「Packing is okay to do」がpackingを許可する心的状態を表出し、その人がpackingを許可しているということを信じているという心的状態ではない、ということは、どのようなことなのだろうか。ここでは、不一致が鍵を握っている。”Packing is okay”という主張と不一致であるためには、私たちは「No it isn’t」と言い、そしてそれによって、packingを許可することについて私たちは不一致である。しかしながら、この断定に不一致であることは、話し手がpackingを許可するということを信じることと不一致である、ということではない。対照的に、「私はpackingを許可する」という主張は、人がpackingを許可するという信念を表出する--それを主張するためには私たちは「No you don’t」と言い、それによって話し手がpackingを許可しているということを信じるということと不一致になる、という点で。心的状態のテストは不一致である:主張を否定する際に、どんな心的状態と人は不一致であるのだろうか?

第5章. 付随性と構成

  • この章では、「the thing to do」の語りに対する「準実在論」とBlackburnの呼ぶもののさらなる側面を発展させている。私の主張では、what to doを考えるものは誰でも、付随性Supervenienceと事実的構成Factual Constructionという実在論のように聞こえるrealist-soundingな主題thesesにコミットしている。これらは、すべての推論reasoningにあてはまるコミットメントの原理Principle of Commitmentから導かれる:[つまり、そのコミットメントの原理とは、]人は、心変わりすることなしにその人が全てのハイパーステートに接近reach inすることのできるのであれば、彼はその主張claimを受容するだろう[という原理である]。このことから導かれるのは、プランナーが、the thing to doであることが平凡なprosaic事実に付随するということを受容しているという、付随性にコミットしているというものであると、私は最初に論じる。それが付随するのは、もし二つの状況situationがthe thing to doであるものの点で異なっていれば、それらは平凡な事実の何らかの事柄で異なっている、という意味においてである。私の論じることは、そこからまた導かれることが、事実的構成の主張にプランナーがコミットしている、ということである:[つまり、]the thing to doであることを構成する、平凡に事実的な性質が存在する。the thing to doであることを構成するconstituteということは、the thing to doであることと必然的に等値equivalentであり、その結果として、どんな可能な情況circumstancesにおいても、ある行為がthe thing to doであるのは、それがその性質を持つ場合のみである、となる。私の主張では、その性質は、認識的に基盤を持っているだろうし、名辞のリベラルな意味において自然的な性質であるだろう。それでも、ある行為を「the thing to do」と呼ぶことはその性質をそうしたものとして帰属させることではない。名前や「厚い」thick理解がこの主題に適するかどうか私は議論し、そしてそれらが実際に適すると私は理解する。

  • その場合、プランナーは、性質に対する自然主義と概念に対する非自然主義にコミットしている。というのは、the thing to doの概念は非自然的だが、the thing to doの性質は広い意味で自然的だからである。この主張に対して、what to doを考える人は誰でもコミットしていると私は論証demonstrateする--そしてプランナーとして、私は私のコミットしている主張を口にするvoiceのである、次のように言いながら:the thing to doであることの性質は、広い意味で自然的性質である[と]。それがどの種類の広い意味での自然的性質なのかに関しては、意味だけによって、その問いは決定されることがない。それは、どう生きるかhow to liveという実質的な問いなのである。たとえば、それが、エゴ快楽的egohedonicであるという性質であり、[つまり、]行為者の最終的な快楽the agent’s net pleasureに対して、私たちの最大の期待を提供するという性質であるとエゴイスティックな快楽主義者は考えている。こう考えることは少なくとも整合的coherentである--そして、それはあまりに整合的でそれが間違いmistakenであるとは考えられないのである。こうした二つの見解のうちのひとつは、誤りwrongでなければならないが、間違いは、それがどんなものであれ、概念的ではない。付随性と構成の主張は、性質に直接的にあてはまるpertainのではなく、概念にこそあてはまるのである。どんな性質も、そのようにプラン-負荷的ではないが、概念の中には、[そのようにプラン負荷的なものが]ある。

第6章. 意味特性と意義

  • 前章では、世界がそうありえたかもしれない方法として理解される、命題としての思考の対象が取り扱われた。以下の見慣れた例が示すように、これは不十分である。:水=H20は、水=水と同じ命題だが、2つ目[の水=水という命題]を信じ、1つ目[の水=H2Oという命題]を否定することは整合的である[というのがその例である]。この章では、思考の対象を表象するために、簡潔に「二次元意味論」を私はシステム化し、そして、それをプラン-負荷的な概念に適用する。thing to doのようなプラン-負荷的な概念と、the thing to doを構成する性質である記述的な概念[、という二つの概念]を考えてみよう。(快楽主義的なエゴイストの考えることは、その[thing to doの]性質がエゴ快楽的であることという[性質]である、ということである)。二つの違いは、私たちが水という概念とH2Oという概念との間で発見する種類の違いの、もう一つの例示だった、と思われるかもしれない。Mooreは、どの概念が異なることができるかについての、さらなる次元を指摘していた、と私は示す。

  • この全てを表象するために、私は専門名辞のセットを発展させるべく進む。文が意味するsignify事態の状態state of affairsと、それの伝達するconvey信念、そして、それが喚起するinvoke命題、これらを私は区別する。それぞれは、思考に対する意味特性マトリックスcharacter matrixの特徴によって表象される。プランは、その後、さらなる次元を付け加え、そして、いまや私たちは、延長された意味特性extended characterと、その結果である、思考やその他の概念についての延長された意義extended importについて、話すことができるのである。名辞の延長された意味特性は、名辞の意味によって決定され、言語の役割によって特定される。その一方で、その(普通の)意味特性は、ただその意味に左右されるだけでなく、どのように生きるかhow to liveによっても左右される。たとえば、もし、エゴ的な快楽主義者が正しければ、「Pacing is egohedonic」と「Packing is the thing to do」は同じ意味特性を持つが異なる延長された意味特性を持つ。もし完全主義者perfectionistsが正しければ、ふたつは異なる延長された意味特性を持つだけでなく、異なる意味特性を持つ。

第III部. 規範的概念

第七章. 日常的べき:意味と動機

  • これまでのところ、この本はプラン-負荷的な判断に捧げられてきた。これは、私たち自身がなし口にする判断と、どんな関係を持つ必要があるのだろうか。探求する仮説とは、「べき」のような規範的名辞はまっすぐにプランの表出である、というものでよいのかもしれない。私はより条件付きのqualified仮説を打ち立てよう。:規範的な言語によって、私たちは確かに事実をプランと混ぜ合わせるmixが、それがどのようであるかは、常には確定されない、と。本章と次の章で私の提案するものは、プラン-負荷的な概念を形成するために、判断の際に私たちがどのようにプランを事実に混ぜ合わせているかに対するパターンである--その中の幾つか[のプラン-負荷的概念]は、私たちが実際に持っている規範的概念かもしれない。

  • 再び、不一致が鍵となる。私たちは一致であるものや不一致であるものの跡trackを追うことによって会話の「跡を追いかける」trackすることができ、そしてそれに従って、一致と不一致のパターンを私の分析の道具として用いる。私たちは言語におけるある種のたるみslackを期待しなければならない:探究の仮定のもとで二つの主張が等値であるとき、どちらの主張が表出されているのかについてのクリアな事実の問題は無いのかもしれないのである。例として、私たちの規範的な語りでは、ただ喜びdelightが私たちの目的として追求されるべきだと私たちが仮定していると、想像してみよう。その場合、「よい」が「追求されること」to be sought、またはむしろ、「それが喜びであるから追求されるべきであること」であるかどうか、についてのクリアな事実は全くない。第二の意味[「それが喜びであるから追求されるべきであること」]は、「喜びだけがよい」Only delight is goodを分析的にしただろうが、一方で、第一の意味[「追求されること」]は、それ[「喜びだけがよい」]を総合的にする。喜びが常に追求するべき唯一のものthe only thing to seekではないと考える人に関しては、その人はそれによって「よい」という語の仮定を拒絶しているのだろう。その場合、こうした人は、その場合、『「よい」は私の言葉のなかのひとつではない』と言うべきである。私たちの倫理的議論とその他の規範的議論は、どのように生きるべきかhow to liveの問いについての仮定のbackgroundに対して進行する。そのため、自然主義的要素とプランニングの要素が私たちの概念と言語においてどのように相互作用するのかについての事実が全くない、ということもしばしばあるかもしれない。このことは、「よい」と「べき」のような私たちの道徳名辞において、あてはまるかもしれない。

  • それでも、もし日常的な意味での「べき」がすべきことであることis the thing to doを含意するのなら、もっともらしくないことが導かれるのではないかと、私たちは心配するかもしれない。私がいじめっ子に好きなことをやってみろと挑発的に示さないかぎり、私はただちにいじめっ子を好きなようにやれと挑発的に示さなければならないなどと、この意味では私は信じていない。しかしながら、人は自分のプランの精神mindにしばしばいないことがある。もし万が一の時が来る場合、同じ瞬間に、いじめっ子にそのとき即座に好きなことをやってみろというあなたの精神の全ての側面とともに、あなたはプランしないだろう。私の述べているのは、「べき」oughtの重要な意味において、まさにその瞬間においていじめっ子を好きにやらせるべきかどうかについて、ひとつ以上の精神なのである。私の1990年の本であるWise Choices, Apt Feelingsとは異なり、この本はべきの心理学についてではなく、その論理と認識論についてのものである。プランの受容を構成するクリアで際立った事実はしばしばないかもしれない。しかし、心的状態は、それが行為に導かれる際の、正しくシステマティックな役割を規範的にになう種類のものでなかったとしたら、心的状態はプランニングと同然ではなかっただろう。同様に、「べき」の判断もそうである。Ira[という人?]を彼の「べき」という発話では厳格な道徳家に一致するが、彼の行為と動機においては、「べき」のエゴイスト的快楽主義者と一致すると考えてみよう。彼はその場合、私たちがすべきことについての道徳家の信念を持っているかのように猿真似をしているだけである。彼は違う名辞さえ--たとえば、「するのがよい」’should’を--「べき」のエゴイストの用法に一致するために使い、彼が「するのがよい」と結論するものによって彼は自分自身を導くguide himselfするかもしれない。その場合、彼の「するのがよい」という名辞は、その他の私たちが「べき」と「するのがよい」を交換可能な形で用いつつ意味しているものを意味しており、彼の「べき」はそうしたものを意味していないのである。彼はエゴイストとただ口頭で議論をする一方、彼の本当の議論は道徳家とのものである--how to liveについての議論--である。

第8章. 規範種: ふれあいのパターン

  • この章では、プラン-負荷的な概念の取りうるもう一つの種類を探求し、そして、hyperdecidedな状態の装置を使用することによって、プラン-負荷的な他者の思考とふれあうengageすることができたり、失敗したりする方法を描く。私はBernerd Williamsの「厚い概念」thick conceptsの取り扱いのいくつかの側面に対し、もうひとつの選択肢を提供する。Geoffrey Sayre-McCordは、自然種の名辞とその振る舞いにおいてパラレルであるような「道徳種の名辞」moral kind termsを提案する。私は「規範種」normative kind termsについて語るために彼の提案を拡大し、それらがどのようにプラン-負荷的な名辞として機能するか、探求する。「分別のつくごろつき」a sensible knaveや自己満足の「不合理主義者」irrationalistが私たちの規範的概念を共有するが、それらの観点から行為を全く導かれない、と考える、強硬派の外在主義者であるべきということは、規範種の理論家にとっては違う。私たちは、ある種--たとえば、残忍さbrutality--を、それが私たちのプランニングの説明において中心的な特徴をもつなら、それを規範的に「よい階層」”high grade”として、言語における名辞が表すsignifyものに対するよい候補として、扱おう。私たちの意見では、残酷な行為は、それらが残酷であるために、忌避され責められる。「残酷である」という意味meaningは純粋に記述的ではない:使用が行為を責めるためではなく祝福するためであるエキゾチックな名辞は、たとえその使用者が大体において残酷な行為に適用していたとしても、「残酷である」ということを意味しない。残酷であることを意味する名辞は、その使用者の抵抗すべきものの説明における正しい役割を担わなければならない。

  • Williamsは「距離の相対主義」”relativism of distance”について語った。私の探求するのは、私たちがどのように時間的、空間的、道徳的気質ethosとしても距離のある人々の思想に、彼らの思想を一致や不一致の主題として取り扱いつつも、時にはふれあうことが可能であるか、であり、さらに、私たちがどのように、彼らの思想をこうした方法で扱うことが時には不可能であるか、である。私たちが私たち自身答えられていない問いを全く持たないようなときでさえ、エキゾチックな「厚い」名辞において表出されている思考に対して、私たちが一致することも不一致することの両方として、私たちが異議を唱えなければならないときはないのだろうか?*3 もちろん私たちにとっては、距離のある時間と場所において--たとえば、青銅時代の邑長の立場に立って--何を、なぜ、なすべきかを探求することはほとんどない。しかしながら、文化的に非常に距離のある場合でさえ、もし私たちが試み、私たちの熟考する思考を行っている人々について私たちが十分に知っているならば、私たちは時にはそうすることが可能であるかもしれない。その後に、私たちは、彼らの規範種の概念が彼らの環境に当てはまるということを拒絶するのかもしれない。それは、最もありそうな可能性である。しかし、私たちはまた、そんな場合でも中には、それらの関心を私たち自身のものとして受け取るかもしれない--恐らく、私たち自身の環境に適用させるのではなく、[距離のある]彼ら自身の環境に彼らの概念を適用する際に、彼らの主張に一致したり不一致であったりしながら、私たちは彼らと仲間になるのである。かれらの概念を彼ら自身の選択に適用できるとして扱うかどうか、は、どのように、なぜ生きるべきかの仮説的な問いである。それは、彼らの道徳的気質と文化的環境とともに、ちょうど彼らのようである状態の、不測の事態における、どのように生きるかの問いなのである。

第9章. The thing to doについて何を言うのがよいか: 表出主義的転回とそれが私たちに得をさせもの

  • 複雑でplan-負荷的な概念が機能するかもしねない様々な方法についてのパターンを手元に置いた状態で、私の仮説は、私たちの規範的概念が確かに何らかのそうした方法で機能するだろう、というものである。それらはプラン負荷的であり、しかし恐らく、複雑にネジ曲がっている方法であるのだろう。
  • プラン-負荷的な概念は多くの方法ではっきりと記述的な概念を模倣することができる。それが、この本のここまでの主要なポイントだった。もし十分に規範的な思考に内的な全ての事柄を、つまり、何が何を導出するかや、何が概念的に整合的な可能性であるのかといったような全ての事柄を、規範的な思考の説明が正しく説明するのなら、そうした規範的思考の説明を内的に十分(internally adequate)であると私たちは言うことができる。Ronald Dworkinは、もし表出的説明が内的に十分であれば、その説明は私たちが未だ知らなかったもの*4を、教えることができるのかどうかを尋ねた。それでは、MooreやRoss、Ewingのような「道徳実在論者」たちがこれまで否定してきたような何かを、それ[表出主義]は私たちに教えることができるのだろうか。もし内的に十分な説明が正しければ、その場合、道徳実在論者のあやまりは、ただ「外的」(external)であっただけでありうる。--そして彼の主張では、道徳性についての純粋に外的な主張が、有意味になされうることはない。私の第一の答えは、道徳実在論者が基本的(bare)で説明のなされていない事実としてとらえてきた道徳的思考の内的特徴を私は説明した、というものである。第二に、少なくともひとつの外的な誤りは理解可能(intelligible)である。:表出主義的説明が、内的に十分であったとしたとしてもなお、私たちが規範的な主張をなす際にに私たちの申し立てているもののの一部を矯正不可能に放っておく、ということである。Dworkinと私が否定するこの主張は、しかし、存在論的主張でありそれゆえ理解可能である--そしてその他の非自然主義者も彼らがそれを理解すればすぐにこの主張をなすかもしれない。
  • この本は、意味についての主張が意味をなす(make sense)と一貫して想定しているが、「意味」の意味についてはどんな立場も受け取っていない。たとえば、この本の立場は、Robert Brandomが正しく考えたものを可能にする。Brandomが、意味の概念は規範的概念であり、意味こそがそれとともに、「端から端までの規範」(norms all the way down)である、と考えたときのものを。

第IV部 What to doを知ること

第10章 プランとともに説明する

第11章 What to doを知ること

第12章 理想的反応概念

第13章 深い擁護と実践的な自信

第14章 袋小路と異議

*1:本記事では、what to doやthe thing to doを翻訳せずにそのまま写しています。これは、Gibbardはこの言葉をかなり基礎的なプラン負荷的概念として考えており、「べき」(ought)や「よい」(good)とは区別して理解する必要があるためです。日本語にするとwhat to doは「何をするのがよいか」もthe thing to doは「するべきこと」ぐらいでしょうが、このように訳語は「べき」や「よい」をどうしても含んでしまうので、本記事ではそのまま載せることにしました

*2:仮定法過去部分の訳が微妙。We could idealize all this by imagining a プラン that was utterly complete, providing for every conceivable contingency. [690]

*3:ここの訳はあまりわからなかった。When must we demur, neither agreeing nor disagreeing with a thought expressed in exotic "thick" terms, even when we have left no questions of our own unanswered?

*4:訳はよくわからない。anything we didn't already know