Prinz(2007)進化倫理学の限界

7.3 道徳性への生体文化的アプローチ(pp.270-287)

7.3.1 副産物としての道徳 (pp.270-273)

  1. Prinzの予測では、道徳性はモジュールが構成するカテゴリーにあてはまらない。道徳性は、それ自体では道徳的規則の獲得のために進化したものではない、そんな能力の副産物(byproduct)なのである。
    • たとえば、衣服、芸術、火の使用、構築された住居、葬儀の習慣、宗教、結婚、複雑な道具なども副産物だろう。これらは全て、他の目的のために進化した認知的な能力から帰結したものである。

      私たちは衣服モジュールを持たない;私たちはただ寒くなり、そして体を覆うものをつくることによってその問題を解決できるぐらいに賢かっただけなのである。

  2. 道徳的感覚を獲得するために重要である能力の種類を考えてみよう。
    1. 第一に、私たちは特定の感情を持つ必要がある。
      • 恥と罪のような自分に向けられた感情に加え、怒り、軽蔑、嫌悪などの他者に向けられる感情。
    2. 第二に、私たちは規則を形成する能力が必要だ。
      • 道徳的な負の感情を遷移(transfer)させる必要性がある。

        そうする際に、ある行為を遂行するのが誰であるかに関係なく、その行為のタイプについてのネガティブな感情を持つように私たちを傾向づける心的表象を私たちは生成するのである。

    3. 第三に、記憶力が必要である。時間がたっても違反者を捕まえるため。
    4. 第四に、模倣の能力が必要である。子どもが罰せられた場合に、同じことを他者がした場合に罰すため。
  3. 第五の必要な能力は、「読心」(mind-reading)という、他者に対して精神状態を割り当てる能力である。
    • 読心によって可能になる共感(empathy)により向社会的行動が増す。
    • 読心はさらに規範についての規範の獲得も(道徳教育などを通じて)促し、メタ感情を確立する。

      もし[規範に違反しても]罪悪感を抱かなかったとしたら、私たちは罪悪感を持つであろうため、罪悪感を感じる傾向性はかなりの安定性を持つ。

  4. メタ感情の役割は道徳において本質的ではないかもしれない(メタ感情を持たない例外として自閉症が挙げられる)が、文化的進化を通じた道徳性の出現において重要な役割を担う。メタ感情が違反者の処罰を強化することによって、共同体の道徳性は守られ、維持されていくのである。
  5. メタ感情が教育において担う役割が再度強調される(love withdrawal?)。
  6. 小括。道徳性は生得的ではなく、感情、規則形成、記憶力、模倣、読心のような生得的な認知的能力による副産物なのである。
  7. 進化倫理学との比較。
    • 私がここまで描いてきたストーリーは、道徳的な規則の内容について何も言っていない。これは道徳化(moralize)がどのように生じるか、というストーリであって、私たちが何を道徳化するかについてのストーリーではないのである。「進化倫理学」という題目のもとで行われる研究とは、この側面で異なるのである。そうした研究はたいてい、規範の内容に関わっている。進化倫理学者は、援助、共有、互恵、その他の振る舞いなどを強調する。私が異議を唱え訴えたことは、これらの行動が何らかの道徳的感覚の欠如においても生起するし、道徳の地位を与えるためには、そうした振る舞いはその観点によって動機づけられているものも同然としてみなされる必要がある、ということだった。共有が道徳的であるのは、私たちが正しいことをするために共有する場合、その場合のみである。[...]しかしながら、いまでは、進化倫理学が道徳性の起源の説明に何を寄与できるかがわかる立場にある。道徳的な規則は生得的ではないが、道徳的な立場を取るように私たちが学べばすぐに、進化倫理学者によって強調される振る舞いは、実際に道徳化される可能性があるのである。[...]こうした物事を善と見なすことを私たちはまなぶ(learn)のである。

    • コメント:このあたりがやはりおかしいように思う。怒り(こっちはPrinz言ってたかも)や共感や同情等を動物も持っているだろうのに、そこを敢えてPrinzは無視している。それによって、動物行動学の知見が何も道徳的動機について語りえないかのように結論しているように見える。
      • それから、道徳性をどう定義するかは基本的にはかなり自由な問題だが、Prinzのナイーブな定義がどれほど生産的か、何かを明らかにするのに役立つかはちょっと疑わしいし、その定義を用いて進化倫理学を否定するのも説得的でないように思う。
      • また、進化倫理学全般も必ずしも規範の内容にコミットしているわけではない(道徳的直観の原因を説明する、など)ので、単純化しすぎではないか。
      • この節で頻繁にPrinzの引くRicherson & Boydも、ざっと検索したかぎりでは、どちらかというと進化的な道具立てを用いて文化の変化を説明する、という印象を受けた(日本語では、中尾先生のこれや、shorebird先生のこれなど)。
  8. 道徳的行為に対してためらいが残るのはなぜか、未だそれを教訓として扱うのはなぜか、について。道徳はかつては小規模な社会の維持のためのものだったが、社会の拡大とともに、見知らぬ人に対してもよく振る舞うプレッシャーが産まれたためである。道徳化が解決策をもたらした、と述べるこの方策はHume(1739)に通ずるものがある。

7.3.2 生体文化的規範 (pp.274-286)

  • Prinzのここまで論じてきた見解:道徳は生得的ではなく、文化という環境と生得的な機能の相互作用で生じるものである。さらに、文化はしばしば生得性を優越(override)しさえするため、生物学的に基礎を持つ行動は必ずしも道徳規則の制限であるとも言えない。
    • 私たちは、同じ生物学的主旋律(themes)における文化に固有の変奏曲(variations)として、人間の多くの道徳的規範を理解することができる。

    • コメント:「生物学的基礎をどの程度認めるか」についての話が微妙にすり替わっているような気もするが、前節でPrinzは認知能力によって獲得される人間に固有の生得的な道徳がある、としたので、整合的ではあるのだろう。
      • いや、やはりこれまでfundamental valueをPrinzは頑なに否定し続けてきたので(ローマ人と現代人では道徳が全然違い共有部分がない、など)、違和感は大きい。少なくとも、かなりミスリーディングだったのでは。

親切さについて (pp.274-)

  • 親切さ(kindness)の文化差の例示。日本の辻斬り、ビューギニアの部族間抗争、ヤノマミ族の同族間抗争、キリスト教の助け合いの精神などなど。
    • グループ内のメンバーに親切であるという生物学的な傾向性が道徳的規則に変換される際、それは幅広く多様な形態を取りうる。規則は文化が定義し、グループのメンバー関係の条件を再交渉する際に、様々な方法で適用される。

  • ある一定の条件では、親切さがなくなってしまう場合もある。
    • ウガンダのイク族。過酷な環境で生存するために、親切さを捨て去ってしまった。

公平性について (pp.275-)

  • 最後通牒ゲーム(an ultimatum game)の文化差。
    • 最後通牒ゲームとは。100$をプレーヤー1が勝手に分配するが、プレイヤー2は拒否権として100$自体を無駄にしてしまう権利を持つ。この状況で一度限りのこのゲームをプレイする。
    • 最後通牒ゲームには、ある程度文化をこえた(cross-cultural)傾向が観察されている(Henrich et al. 2001)。しかし、ペルーとパプアニューギニアの部族はそれぞれ著しく異なった拒否権の行使を行う。やはり、文化をこえた共通の分配方法がある訳ではない。
  • 資源分配の方法にも文化差が見られる。個人主義的なアメリカと、貧困にあえぐインド、集団の調和を重んじる中国では大きな違いが見られる。

互恵性について (pp.276-)

  • 文化は互恵性(reciprocity)にも影響する。進化倫理学がチンパンジーやチスイコウモリにおいて説明するステレオタイプなものとは違い、人間の互恵性ははるかに可塑的ものである。そのため、それらを遺伝子が全て決定すると考えるには、不十分である。
  • 進化論や生物学の枠組みで与えることができるのは、感謝の感情等の脚組レベルでしかない。文化的学習によって、借りを返す特定の方法を私たちは学ぶのである。

小括 (p.276)

  • 親切さ、公平性、互恵性などの生物学的基礎は、文化的に順応されるものであるし、文化的な精緻化なしでは私たちの行動を導くのには不十分である。
    • 文化にはふたつの寄与する要素がある。
    • 第一に、文化が道徳的な規範を道徳的感情の基礎とすることによって、生物学的にインプットされた行動を道徳的な規範にする。
    • 第二に、類人猿などに対しては、かなりステレオタイプ的で限られた行動上の効果を持つのみである生物学的に基礎を持つ規範というものを、文化は取り上げ(take)、私たちが誰に何をすべきかという文化的に具体的な教示へとそれらを変換する。
      • 互恵性についてPrinzの強調するのは、この後者の議論である。

階級 (pp.277-)

  • 文化の社会的階級(rank)への寄与。文化によって平等主義的か階層的かは大きく異なる。
  • 文化が階級の役割などの意味付けを具体的に与えるのである。インドのカースト制度のように、階級が固定化する場合さえある。
  • それ[インドのカーストのような社会的な階層]は生体文化的な組織であり、それは従順さ、敬意、高慢の感情によって強化される。階級に関係する感情は恐らく普遍的であるが、それらの表現は様々でありうるのである。

  • 文化が特定の感情の種類を決めることもある。平等主義的な社会では高慢の感情は抑えられる。
  • 第四章で登場したMiligramテスト再び。暴力的な命令を行う権威への服従の度合いは、ドイツ、アメリカ、オーストラリアの順で小さくなっていく。白人社会でも異なるのである。
  • 階級が文化によって怒りや軽蔑の感情とともに学習されるプロセスは人間に固有のものである。
    • 遺伝子がどのように社会的なグループを組織するかを私たちに教える、という証拠はほとんどない。むしろ、従順や競争の能力、階級に関係した感情という、私たちを階級形成に影響をうけやすい状態にするものを、遺伝子は促進するのである。

不貞 (pp.280-)

  • 不貞(infidelity)
    • 類人猿には不貞などの感覚がないようにみえる。チンパンジーやボノボにいたっては乱交型である。
      • 人間ではない動物には、不貞について、第三者の関心を持つことがないようだ。
    • 人間は、結婚のような制度をつくることによって、性的なアクセスの制限を道徳化したのである。
  • 不貞についての感情が生得的なものだと想定する理由は全く無い。
    • 嫉妬の感覚は怒り、恐れ、悲しみ、嫌悪の感情がブレンドされたものだとして説明することができる(Prinz 2004)。私たちが嫉妬というラベルをこのブレンドに貼るだけである。
    • また、奔放な性を生得的に拒絶するように私たちができているわけでもない。女性の方が性交よりも感情的な不貞に嫉妬する、というのも、特定の社会の文化の特徴だと捉えるほうがよいだろう。
  • これは、不貞を罰するべく進化してきたという私たちの傾向性を否定するものではない。むしろ、私の要点は、不貞に対する道徳的規則やそれらを基礎づける感情は、生物文化的な相互作用を反映したものである、ということである。
    • しかしながら、もし猿や鳥の不貞がなんらかの示唆を与えるものであるなら、女性も[男性と]等しく、複数のパートナーを求めるはずである。

近親相姦 (pp.281-)

  • 実の娘と性交する文化さえある!日本では試験のために母親が息子の性欲を鎮めてあげるみたいだ!(Prinz:...これは非常に誇張されているかもしれないが)。
  • 兄妹の近親相姦に対する罰も文化差が著しい。
  • これらを踏まえるとWestermarckの仮説(ともに過ごす時間が長いと、近親相姦への嫌悪感のスイッチが入る)は怪しいと考えられる。いくつかの実験結果が提示されてきたが、これらは他の要因として説明したほうが上手く説明できるだろう。
  • いとこのような距離を置いた近親相姦のタブーの規範も上手く説明できないだろう。
  • Prinzは近親相姦を防ぐ生物学的な基盤が全く無いと考えている訳ではない。成長とともに家族の外の人に性的興味を抱く、というような別の仮説のほうが、進化的な観点からも上手く説明できるだろう。
  • 近親相姦回避は、性的に興味のない対象への性的想像による嫌悪感の結果として捉えることもできるはずだ。
  • また、富の経済的な分配の方法をめぐるひとつの戦略として、近親相姦の禁止の戦略を説明することも可能だろう。
  • まとめると、異族への性的欲求の方が近親相姦の忌避を上手く説明する。しかし生物的な近親相姦を回避する傾向は、道徳的規範ではなく、文化によって道徳化される。
  • また、近親相姦に対する恥や嫌悪感といった感情も、道徳化の結果として説明することが可能である。

小括 (pp.285-)

  • この節において、私たちの道徳的規則が生物学において何らかの基礎を持つ場合でさえ、人間の道徳性の多様性を強調してきた。[...]第一に、私が7.1節で私の導入した自然的に進化した規範は、それらの自然的な状態において道徳的規範である資格を持つことができない。Shwederの3種類の倫理的システムの出現も含む道徳化は、文化的な発達の帰結なのである。第二に、自然的に進化した規範は、装飾され、拡大され、恐らくは文化的な影響のもと抑えられることも可能である。文化的な影響は、固定された結果の範囲に限られるのではなく、無制限(open-ended)なのである。

  • 無制限性についてのこの論点は特別な強調に値する。この文脈では、私はひとつの可能な異議を防いでおきたい。今日では、皆が相互交流の考えを支持している(interactionist)であるように見える。道徳生得論者たちは、しばしば、環境が道徳に寄与することをよろこんで認める;彼らはほとんどの心理学的な表現形(phenotype)は、自然と育ち(nurture)のブレンドであると述べる。それゆえ、私の見解と、進化倫理学の擁護者の間で流行している見解との間には、何の違いもないように見えるかもしれない。しかし、見かけは人を騙すものである。進化倫理学者はシステマティックに、文化の寄与を過小評価しているように思う。これは、きっと進化心理学者にもあてはまる。自分たちが相互交流の考えを支持していると主張しつつ、彼らのしばしば持ち出す例は、環境に対して非常にミニマルな役割しか示唆しない。[環境に応じて性別を変化する魚の例。環境は遺伝子のスイッチを押すだけで何も実質を付け加えない]。

  • 道徳における多様性は内的なスイッチについての前-固定的な設定という、固定されたセットには、制限されない。環境は、青い頭のwrasseにある影響よりも、はるかに実質的な影響を私たちにもたらすのである。道徳性のopen-endednessの示唆するものは、私たちの生活する文化は、私たちの規則の内容を遺伝子にpre-codedされた規則のセットから選び出すよりもむしろ、その内容に実際に寄与するのである。文化は単に生得的なプログラムをactivateするのではない;それは私たちのソフトウェアを書き直すのである。(p.286)

文化は私たちの生物学的規範を道徳的規範に変換する--感情[sentiments]に基礎を持ち、第三者に拡大される規範へと。進化は道徳性の源ではないのだ。

7.3.3 結論:自然に対して

  • 基本的には繰り返し。
  • 私たちは文化的に洗練された道徳を捨て、チンパンジーのような生活に戻るのだろうか。そう望まないでないことは自明である。
  • 生物学的な基礎はあまりにも道徳を説明するのには不十分なのであった。