Hare(1985)倫理学における存在論(はナンセンス)

Ontology in Ethics

マッキーの死後に彼をテーマとして出版されたアンソロジーに、R. M. ヘアが寄稿したものです。メタ倫理学における「存在論 対 反実在論」や「認知主義 対 非認知主義」といった論争区分への、ヘアなりの疑念が呈されています。

Hare, R. M.. (1985). Ontology in Ethics. in Morality and Objectivity: Essays in Memory of John Mackie. (ed.) T. Honderich. Routledge. pp. xx-xx. Repr. in Hare, R. M.. (1989). Essays in Ethical Theory. Oxford: Oxford University Press.

Morality and Objectivity (Routledge Revivals): A Tribute to J. L. Mackie

Morality and Objectivity (Routledge Revivals): A Tribute to J. L. Mackie

ヘアの提示する、倫理学上の論争の可能な区分。

対立する立場 対立の種類
(1) 実在論 vs. 反実在論 存在論的
(2) 信念を表すものとしての道徳的判断 vs. 態度を表すものとしての道徳的判断 心理学的
(3) 認知主義 vs. 非認知主義 認識論的
(4) 記述主義的 vs 非記述主義 論理的 または 概念的

存在論的問いについて

「存在する」という語の3つの可能な区分

  • マッキーは言うなれば、記述主義者ではあるが反実在論者であった。
  • しかし、そもそも倫理学における道徳実在論とは何を意味するのだろうか。恐らく、誤りであること(wrongness)のような道徳的性質や道徳的事実が、何らかの方法で自然の領域に存在する、と言うのが道徳的実在論の主張だろう。しかし、ここで想定されている以上に、実際の「存在する」(exist)という語には幅広い意味がある。例えば、何匹かの牛が存在すると言うのと、ある数が存在すると言うのでは、その存在の仕方には質的に大きな違いがあるだろう。大雑把に言えば、以下の3つの可能な意味で私たちは「存在」という語を用いることができる。
    (1) 私たちが何かを有意味に(meaningfully)何かが赤いということを言うのなら「赤さの質が存在する」ということができる。
    (2) 何かを真に(truely)それが赤いということをできるなら、赤いと言うことができる。
    (3) 何か対象を指示(refer to)することができるのなら、存在するということができる意味もある*1
  • (3)の意味では、道徳用語は存在する。なぜなら、「スミスの行為の誤りであることは、彼がそこから利益を得ることが許されるべきではないということである」のように指示することが可能だからである。

「存在」という語の(私たちが形式的と読んでもよい)これら3つの意味の全てにおいて、私たちが正しく言えたり言えなかったりするものの観点から定義がなされていることに注意せねばならない。それがここにおいて意味するのは、語や概念を支配する論理的な規則が私たちに言うことを許しているものである。これはそれ自体で存在論者に中断を与えるだろう。というのは、悪さが存在するかどうかという問題が、結局はすべて概念的なものである--つまり、哲学的論理の問題であり形而上学の問題ではない--ということを明らかにするからである。もしくは、全ての存在論的な問題が実際には概念的なもので、形而上学は哲学的論理から区別されるべきではない、ということも明らかになるかもしれない。この古くて一般的な問いに入ること無しに、私は単に倫理学において、これがそうであるということを明らかにしたい。つまり、私たちがいわゆる存在論的な問いを倫理学において議論している場合、私たちは概念的または論理的な用語のもとにまた置かれうる問いと同じ問いを議論しているのだという、望みを単に表現しておきたい。その後、どちらが最も明確な用語の入れられるべきものか尋ねられるべきだろう。これは、実際、私がこの論文において課したい問いである。

道徳的実在論はどの「存在」に区分されるか

  • しかしながら、実在論者が誤りであることが自然において(in reum natura)存在すると主張し、反実在論者がこれを否定する際に、これらの形式的な意味の「存在する」という語のいずれが用いられているのかは、かなり不明確である。

ほとんどの反実在論者は、おそらく、マッキーも含めて、これらの[(1)-(3)の存在のうち]形式的な意味のひとつにおいて悪さが存在するということを言うのをためらわないだろうし、それが存在することがただ「物質的な」(material)意味において否定したがるだろう。[...], 反実在論者はこれら[(1)-(3)の存在のうち]最初のもの[を否定している]ようだ:彼が考えているのは、もし悪さが何らかの意味で存在するとしても、それは牛とは違った仕方で存在しているということである。[...]実在論者の追従者は、それ[誤りであること]は同じ意味で存在するが、牛とは違った種類のものであると返すかもしれない。 しかし、もしこれが彼らの言うことなら、彼らが口論すべき理由は本当は何もない。もし実在論者が悪さが牛のようなもので手に触れられ空間的に位置してると主張していたなら、実質的な議論が彼らの間にはあっただろう。;もしくは、[悪さが牛と同じく遭遇可能な方法で定義されている場合は]。しかし、彼[実在論者]はこれらのうちのどちらも主張している訳ではない。彼は、誰かが悪い行為をしているのにどこかで遭遇することができると主張しうる。;しかし、反実在論者は、マッキーのような無道徳主義者でないかぎり、それを否定しないだろう。マッキーはどのような行為も悪く無いという、道徳的判断を忌避する無道徳主義者でもあったのである。 言い換えれば、もし「自然の領域に」や「世界の構造の一部」といった表現が、牛を含むが数字を除外する強い意味で受け取られれば、実在論者は悪さがその種類のことではないし、その意味においては存在しないことを認めることができる。しかしもしこれらの表現が牛だけでなく数も含ませるような幾分か弱い意味で用いられるなら、その場合、私はその強い意味で悪さが存在することを反実在論者が認めるべきではない理由が分からない。[訳し降ろし]理由がないのは以下のどの場合でも同様である。何らかの行為が悪いということを彼が認めたり((2)の意味を参照)、また彼がそれらがある(are)と言っても意味をなすと少なくとも認めたり((1)の意味を参照)、ある人が悪さという語を主語の場所において悪さについて何かを言えるということを認めたりする((3)を参照)。

ヘアの存在の区分への反論と応答

  • 反実在論者による反論
    • (2)や(3)の意味の存在では、かなり実質的な真理の概念が前提とされている。
    • だから、もし「誤り」(wrong)や「誤りであること」(wrongness)を含む言明が真で偽でもありえないのなら、誤りであることは(2)(3)どちらの意味でも存在しないだろう。
    • さらに、もし真理の概念がそれらにあてはまらないのなら、それらの言明は真でも偽でもありえない。
    • だから、存在論を支持するためにヘアの持ちだした(2)や(3)の意味での存在は、妥当ではない。
  • ヘアによる応答
    • この反論は妥当ではない。なぜなら、当初の論点であった「存在論的問い」から「真理をめぐる問い」へと、論点が移行しているためである。

    なぜなら、(何人かの考えるように)道徳的判断が真か偽であるかという問いが倫理学において本質的な問いであったとしても、それは存在論的な問いではなく概念的問いであるからである。それは存在についての問いや何かの非存在(non-existence)についての問いではない。だから、もしそれがこの深刻な概念的問いへの答えに結びついているため実在論者と反実在論者がそれらの間の問いが深刻なものであるなら、彼らは、その問題が本当は存在論的なのではなく概念的であるということを認めねばならないだろう。彼らは彼ら自身を実在論者と反実在論者と呼ぶのをまた諦め、自分たちを記述主義者と非記述主義者であるとその代わり呼んでもよいだろう。これが私の実際提案しようとしていることである。ただ、私自身は記述主義者と非記述主義者のあいだの問題を述べる最も精確な方法が、道徳的判断が真偽を取りうるかを尋ねることではないと思うが(p.26を見てみなさい)。
    ここまでをまとめると: 実在論者と反実在論者との間の存在論的な議論をつくる際に、「存在する」の形式的な意味が用いられることはほぼありそうにない。なぜなら、後者[反実在論者]はそれらの意味では道徳的な質が存在するということに賛同できるためである;しかし、想定されているより強い「物質的な」意味においてもまた、存在論的な問いが生じることはなさそうである。なぜなら、その意味では、実在論者はそれらが存在すると主張することがあまり賢くなく、そうする必要もないだろうからである。

道徳的「事実」の存在を訴えるタイプの実在論

  • 以上の直接的な存在論だけではなく、何らかの「事実」(fact)の観点から、道徳的事実に訴える実在論も考えられる。
  • この場合でも、ある程度先ほどの直接的な存在論とアナロジー的な区分が可能だろう。
    • 有意味性の(1)にナロジーあ的な意味では、事実が存在するとは言えそうもない。なぜなら、有意味な言明ではなく、真である言明によってのみ、事実は確立されると通常は考えられているためである。
    • (2)に類比的な意味では、ある行為が誤りであったという事実が存在することのできるのは、その行為が誤りであったと誰かが真に言うことのできる場合である。
    • (3)に類比的な意味では、ある行為が誤りであるという事実が存在するのは、たとえば「それが誤りであったという事実」のような語句を、真または偽である主語の位置に置くことによって、その事実が指示される場合である。
  • しかし、この区分においても、実在論者と反実在論者が、この(1)-(3)の区分のいずれかから外れる理由は全くない。彼らの論争がそこから外れるとすれば、それは彼らの論争の実質が記述主義か非記述主義かをめぐるものであるからだろう。その場合、やはり、記述主義か非記述主義か、という概念的・論理的な区分の方が適切であろう、ということになるのである。
  • 事実をめぐる議論には、より形而上学的な議論もあるが、私は本稿では深入りしない。

二次性質とのアナロジーについて

  • 次に、道徳的事実や道徳的性質ついては言うべきだが、「通常の」(ordinary)事実や性質については言うべきではないようなことがあるか、問うてみよう。
  • 道徳的性質を、ロック以降「二次性質」と呼ばれてきたものと比較することにも意味があるだろう。
    • たとえば、「赤さ」という私の例として用いいてきた性質も、二次性質のひとつである。
    • 確かに、「赤さ」のようなこうした性質を、対象の性質だけではなく知覚者の反応も加えて形成される「産物」(products)と呼ぶことも可能であろう。
    • この議論を、道徳的な「誤りであること」に延長することも可能かもしれない。なぜなら、「誤りであること」も同様に、対象の性質と知覚者の反応の産物であると言えるからである。

    実在論者にとってのこの動きの便利さは、以下のようなものだと考えられてきた。もし反実在論者がいわゆる道徳的「特質」(qualities)が他でもなく、行為の非道徳的性質によって生みだされた観察者や思想家の中の反応でしかないのなら、彼の先ほどの傾向性や態度の連言において、同じことがすべての二次性質に言うことができる。だから、反実在論者が道徳的性質と特質との間でなそうとしていた区別は、赤さと同様に、消え失せるのである、と。

二次性質とのアナロジーを用いる議論への回答は2段階

  • 二次性質に訴える議論には、以下の二段階の典型的な回答が提示されてきた。
  • 第一に、反実在論者が「古びた」主観主義者として、存在論をめぐる問いでは誤って想定されている点が指摘できる。
    • 多くの人々は、反実在論者が古びた主観主義以外の立場を取ることが可能であると中々理解しようとしない。
    • しかし、事物の「客観的」性質であれ、話し手と事物との間の「主観的」性質であれ、何らかの種類の記述的性質を対象に帰属させることが、私たちの言うことの全てであるという偏見に、多くの人の誤りは基づいている。
    • そうした偏見とは逆に、初期の非記述主義者たちは、主観的であれ客観的であれ、何らかの種類の性質を対象に帰属させることは、必ずしも必要でないと主張したのだった。
  • 第二に、二次性質に訴える議論には、二つの欠点がある。
    • まず、道徳相対主義に終止してしまう危険性が二次性質とのアナロジーにはある。
    • さらに、道徳の問いを合理的に考えるプロセスが不可能になる危険性も考えられる。

たとえば、赤さの帰属(ascription)は、標準の(normal)環境で同じ光に同じ対象に面した際に、片方がそれを赤いと言い、もう片方がそれを赤くないというようなことを許さない慣習(convention)によって支配されている。それらのうちの一つは、慣習の違反でなければならない。彼は色盲であったとしても、彼は違反を行っている。しかし、誤りであることの帰属(ascription)は、標準で同一の環境において同じ行為に面した際、もしそれが私たちがそれぞれ考えていることなら、ひとりはそれが悪いと言い、もう一人がそれを悪くないと言うことを続けることを許す慣習によって、支配されている。私たちはそのことについてどちらかがもう一人を納得させられるという望みのもと、推論する(reason)ことができる;しかし、私たちのどちらも、私たちの事実の事実の観察によって制限されたり、言葉の正しい使い方に制限されることはない。

  • 本稿での私の目的は、この論争に決定的な回答を与えることではない。しかし、存在論的な区分は維持不可能であるように思われる。
    • さらに、反実在論の立場を取ったとしても、道徳的事実を発見するための合理性だけではなく、行為を決定するための合理性を考慮することによって、道徳的思考をより適切に捉えることも可能である。

心理学的区分について

  • 次に、「信念/態度」という心理学的区分が妥当かを考察してみよう。心理学的区分も、早急に除去することが可能である。
    • なぜなら、信念も態度も、全ての心的状態の持つ志向性という性質を共有しているからである。
    • 心的状態の内容を与える'that'節や命題を導入すること無しには、信念も態度も十分で明瞭に特徴づけられることが不可能である。
    • 実際、ある人の道徳的意見を記述する際には、「彼はその行為が誤っていると考えている」(he is thinking that the act would be wrong)と私たちは述べるし、この方法は正しい。
  • それゆえ、こうした心理的状態についての十分な説明のためには、彼の考えていることが表明される場合の、論理的または概念的または言語的説明が必要である。
    • 「その行為が誤っている」という文の文法的な形式は直接法文である。だからこれは信念を表す、という主張を考えてみよう。
      • しかし、Ayerのような情動主義者はそうした文の形式が表面的なものであり、その行為の否認の表現として分析されるべきだと主張していたのであった。
      • だから、両者の論争を調停するためには、やはり論理的・概念的研究が必要なのである。

認識論的区分について

  • 「認知主義/非認知主義」という認識論的区分もこれまでと同様に維持不可能であり、やはり「記述主義/非記述主義」という論理的・概念的区分こそがもっともふさわしいと私は論じよう。
    • なぜなら、ある行為が誤っているかどうかを私たちが合理的に決定できるかどうかの認識論的な問題への解決策は、論理的または概念的問題に左右されるからである。
      • 道徳用語の論理的性質を考察する上では、人は、古びた実証主義者になる必要もなければ、純粋に、真理条件的意味論だけを主張する必要もないのである。
      • もし推論によってこそ私たちが言明を受容すべきかどうかを決定するのであれば、私たちがこのことを決定する方法についての認識論的問いは、言明とその言明の含意関係いう論理的性質から区別されてはならない。
    • このことを否定することができるのは、「何が正しいか誤りかは直観的に見ることしかできない」とする強い形態の直観主義者だけだろう。
      • そして、こうした直観主義者と私のような合理主義者との間の論争も、結局のところ記述主義か非記述主義か、という論争として理解する方が説得力がある。
  • しかしながら、実証主義や真理条件的意味論との関係に言及した以上、真理の問題についても言及しておく必要があるだろう。
    • 道徳言明の意味がそれらについての推論の方法と密接に関わっているというのは、私の述べてきたように全く正しい。
      • しかし、道徳言明の意味が、非道徳的事実と共に、それらの真偽を決定すると述べるのは誤りである。
      • 道徳言明の論理的性格が私たちに課す推論の方法は、道徳言明を非道徳的事実になぞらえた上で、その道徳言明が真または偽である、ということのみに基づいているのではない。
      • このように考えることは、記述主義者となることである。
    • 私のような指令主義者は、まずその道徳言明の論理を理解し、つまりそれを受容するかどうかを決定するのに適切な思考の形態を理解した上で、そうした形態の思考にともなって、思考をなさなければならない、と考える。
  • 一貫的に考える限り、倫理学における存在論的・心理学的問いは、論理的・認識論的な問いに場所を譲らねばならない、というのがやはり私の結論である。
  • 「記述主義」という用語を「認知主義」という用語よりも私が好み、非認知主義者と呼ばれることを私が嫌う理由は、この非認知主義という用語が、道徳的問いを決定するための合理的過程が全くないと、私が主張しているかのように、見せてしまうことである。
    • それは、「認知的」(cognitive)という語にどれほどのものを読み込むかどうかに左右される。というのは、多くの心理学者にとって、知識だけでなく信念も、認知的な状態として扱われるからである。
    • 道徳的な確信を信念と呼ぶ人々と、それらを態度と呼ぶものとの間の心理学的な議論は表面的である。その理由は、単に志向性による理由だけではなく、非記述主義者はそれらを信念と呼び、さらに、それらが日常的な事実的信念とは異なっていると主張することもできるからである。
    • 同じ問題は、信念が認知的状態として扱われる場合に、「認知的」という語にも影響を与える。
    • 情動主義者でさえ、「認知的」という語の広い意味において、道徳的な態度が認知的状態であると、主張することができる。
    • しかし、「認知的」という語の狭い意味においては、心的状態は、それが何かを知ることに基づいていない限り、道徳的真理の知識の存在を否定する情動主義者は認知主義者ではありえなくなるのである。
      • 私自身の立場は、私たちはある行為が誤りであることについて確かに正しく話すことができるが、それは、道徳用語において、文化に相対的である記述的意味が確立されているからである、というものである。
      • 文化の中の真理と、どのように道徳の問いを決定するか、という問いは区別されなければならない。
    • 道徳的事実を発見する以外にも、どのように指令的で行為にかかわる問いを合理的に決定するか、という問いがある。後者の問いもまた、広い意味では認識論的な問いである。
      • もし、指令的な問いを合理的に決定することができると考えることが、認識論や知識の理論を持つことであれば、私のように決定の合理性を認める人は、おそらく、認知主義者というラベルを付けられるべきだろう。
  • 最後に、私の「論理的」や「概念的」という語の使用法について簡潔に擁護しておこう。私は、語の概念と語の論理的性質が不可分であると考える一派に属している。さらに、「べき」や「誤っている」は義務論理の記号の自然言語版として、純粋に論理的な語であると主張できれば、と思う。ただ、この主張に必ずしも深入りする必要はない。要点は、道徳的な言明をある人が言う時に彼の発言を理解するためには、その発言で彼が含意していたり、その発言と整合的であったり不整合であったりすることを理解せねばならない、ということである。この分野では論理的分析と概念的分析は不可分であり、それゆえ私はそれらを区別しようとしなかった。

*1:「この[(3)の存在]が考えられるのは、それ[存在する何か]を指示する表現が、真か偽の言明の主語の位置に、生起することが可能な場合である(大雑把に言って)。この[(3)の存在の]意味は、私たちの目的のためには、以下の場合における密接に関係したもうひとつの意味から区別される必要はない。その場合とは、もし、真であったり偽であったりする肯定的な存在言明において、ある種類の存在する事物に及ぶ変項が、量化されることができるのであれば、それについて語ることには問題がない、と言うことである。それゆえ、イングランドの女王が存在するのは、私たちが彼女について真か偽の何かを言うことができる場合であり、フランスの王が存在しないのは、私たちがそれを言うことができないからである;そして、牛が存在するのは、「いくらかの牛は(Some cows)」という語句ではじまる真か偽である言明を私たちがつくることができるからである。(p.85