Hare(1996) 命令法、指令、そして、それらの論理

Objective Prescriptions: And Other Essays

Objective Prescriptions: And Other Essays

Hare, R. M.. (1996). “Impératifs, prescriptions et leur logique.” In Dictionnaire de Philosophie Morale, xx-xx. Edited by M. Canto-Sperber. Paris: Presses Universitaires de France, 1996. Reprinted as “Imperatives, Prescriptions, and Their Logic” in Objective Prescription.

4.1

The most general term for speech acts of this kind[prescription] is telling someone to do something, in contrast to telling him(or her) that something is the case.

  • 祈りという、話し手が全く権威の無い場合でも、命令法は何かをさせるためのものである(神にそれをさせるので)。
  • 命令法を割り当てられた人をchargeeと呼ぼう。
  • 逆に、命令法や指令以外に何も、人に何かをさせることができない、ということは成り立たない。
  • スティーブンソン第三章のように、pragmaticという語について混乱してはならない。
    • オースティン1962の第八章を参照のこと。
    • そのほか、Practical Inferencesのラストや、H1951も。
    • ウィトゲンシュタインのチェスの例。意味を伝えることと、何らかの目的を達成することとを混乱してはならない。
  • 命令法の'verbal shove theory'= 命令文を相手に何かをさせることと同一視すること。
    • Hareは、「それじゃあ騒がしくしていなさい」(後で君たちを罰してあげるから)と言うサディスティックな学校教師の例を挙げる。ようするに、何かを述べることと、語用論的に何かをさせることとの区別を導入している。

4.2

  • 文の成立要素には第三章でみたように、the tropic, phrastic, neustic, and clisticが必要。
  • このように区別して考えると、命令文にはthe phrasticというstatementと共通する部分があることに気づけるだろう。
    • This can be brought out, alternatively, by rephrasing an imperative as the command or request to make a statement true.
    • e.g. ドアをしめろ!→Make it the case that the door is shut
    • もし"Make it the case that the door is shut and not shut"は、"The door is both shut and not shut."と言うのと同じく矛盾。
  • しかし、命令文において、道徳哲学の目的の限りでは、必ずしもinferenceは不可欠ではない。
    • 必要なのは、inconsistencyの性質のみである。
    • ここの区別は、ロスのパラドックスを避けるために導入しているのだろう。
  • 命令法の論理は、しかしながら、phrasticの論理に制限されない。サールの仕事(Searl and Vandervesken 1985 illocutionary logicの定式化(formulation))が示しているように(サールはまだある種のverbal shove theoryに結婚しているようだが)(1985: 22, 52)、命令法を含む多くの様々な種類の発話行為の中で行われる「illocutionary logic」というものがありうる。さらに、彼らの示す所によれば、そうした論理がtropicsとneusticsと私たちの呼んでいるものへのreferenceを含まねばならない。彼が'illocutionary denegation'(1985: 4)と呼ぶものは、ある種のneusticのnegationであり、論理的に重要である。;そしてtropicsも論理への影響を持つ。例えば、'you will go'から私たちは'you will not stay here'を推論することができる。

4.3

  • 命令法の論理を全て考察することはできないが、命令法と直接法が根底的に異なっているという根拠を否定する議論を最初に示しておこう。
  • Hareの否定する第一の議論:選言の振る舞いが直接法と命令法では異なる。いわゆる、ロスのパラドックスの問題。
    • Griceの会話の含みの理論で対応。
    • 正しい道徳的思考のためには指令が発行される状況の事実を考慮し、論理的に結合して充足されえない指令を、私たちが避けねばならない、ということを充足の論理は要請する。
  • Hareの否定する第二の議論:排中律が命令法には適用できない点が、直接法文とは大きく異なっている。
    • 直接法の論理と命令法の論理が異なっていると示すために一般に用いられるもうひとつの論証は、、排中律(the law of excluded middle)が後者[直接法の論理]には妥当だが、それが前者[命令法の論理]には妥当でない、というものである。ドアが閉まっているか閉まっていないかのどちらかであることは、論理的に事実(the case)でなければならない;しかし、私は「ドアを閉めなさい」(Shut the door)か「ドアを閉めるな」(Do not shut the door)のどちらかを命ずる(command)する必要はない;私は、論理に異常をきたすことなしに、ドアが閉じられることになっているかどうか(whether the door is to be shut)について何も言わなくてもよい(may)し、私はまた、論理に以上をきたすことなしに、「あなたのお気の好きなように、あなたはドアを閉めてもしめなくてもよい」(You may shut the door or not, just as you please)といってもよい。

    • この論証はふたつの可能な混乱に基づいている。第一[の混乱]は、「あなたはドアを閉じることになっている」(You are to shut the door)の二つの意味(sense)の間におけるものである:(1)「ドアを閉めることになっている」が、話し手によって発せられる「ドアを閉めろ」という命令法と等値な場合の意味;(2)「ドアを閉めることになっている」が、そんな命令法が他の誰か(例:上官の司令官など)によって発せられたということの報告(report)である場合の意味[。これらふたつの意味の混乱である]。これらの意味の二番目においては、もしこの上官の司令官が、ドアを閉めるという命令も発せず、ドアを閉めないという命令も発しないのなら、その場合、あなたがドアを閉めることになっているということが事実であるということもないし、ドアを閉めないことになっているということが事実であるということもない。しかし、二つのうちの最初の意味では、「ドアを閉めろ」と「ドアを閉めるな」との間で、話し手が命じることのできるものは何もないのである。

    • もちろん、彼は、ドアを閉めることを許可(permit)したり、また、ドアを閉めないことを許可したりすることができる;彼は、これらの許可を「あなたはドアを閉めてもよい」や「あなたはドアを閉めることをしないでもよい」(You may omit to shut the door)と言うことによって、これらの許可を表明することができるし、彼は自己矛盾なしに、これらの両方を言うことができる。しかし、直接法でも同じく、彼は「ドアは閉まっているかもしれない」(The door may be shut)や「ドアは閉まっていないかもしれない」(The door may be not shut)のどちらも言うことができる: こう言うことの可能性は、排中律によって除外(ruled out)されない。

    • これを理解するためには、通常の様相論理妥当と量化子理論において妥当である'square of opposition'が、上記の二つの意味の第二[の誰かが行った「報告」という意味]における「あなたは…することになっている」においては妥当であるが、第一[の話し手が発する命令の意味]では妥当でない、ということに気づくのが役立つ。(2)の意味では、「あなたはドアを閉めることになっている」は、「あなたはドアを閉めることを差し控える(refrain)することになっている」の(contrary)である;どちらの命令も発せられないということは可能である。しかし、(1)の意味においては、「あなたはドアを閉めることになっている」(=「ドアを閉めなさい」)は、「あなたはドアを閉めることを差し控えることになっている」の矛盾である。ドアが閉められることになっているかそうでないかについての、正確な教示を与えなければならない話し手は、どちらかを言わねばならない。彼が「あなたのお気の好きなように、あなたはドアを閉めてもしめなくてもよい」と言うことができるということは、それらが矛盾であるということを示すものではない。それがこう示すものではないということは以下の場合と同様である。つまり、「ドアは閉まっているかもしれないし閉まっていないかもしれない;私はただ知らないだけだ」と彼が言うことのできる事実が、「ドアが閉まっている」と「ドアは閉まっていない」という言明が矛盾でない、ということを示さないのと、同様である。

    • こうした誤解した論証につながりうるもう一つの可能な混乱がある。これは、命令法の文と、義務的な様相を表現する規範的文との間にある混乱である。「べき」と命令文が同じものを意味すると考えるのは、非常に一般的である。

    • 義務的様相には、通常の真理(alethic)や因果や認識や論理的様相と同じように、square of oppositionが確かにある。「あなたは…すべき」(You ought to...)は、たしかに、「あなたは…すべきでない」(You ought not to...)(= …することはあなたの義務ではない)の逆ではあるが、矛盾ではない。義務様相を命令法との間で混乱することは、たとえば「ドアを閉めろ」が「ドアを閉めるな」と矛盾ではないが、逆である、とするような、単純な命令法のa square of oppositionがあると述べる誤解の、ひとつの源である。

4.4

  • 命令法と義務様相の間の関係は、通常の直接法の文、および通常のちょうどリストにされた種類の通常の様相との間の関係との、ある種のアナロジーを提示する(MT 1.6; Fisher 1962を参照)。ほとんどの義務論理の標準的な体系では、次のような種類の公理や定理がある('L'が「必然的に」、'M'が「可能に」をあらわす、ポーランドの表記法を用いている)。

  • CLpp (もし必然的にpなら、その場合、pである)(If necessarily p then p)
  • および
  • CpMp (もしpであれば、pである可能性がある)(If p then possibly p)
  • もし義務論理と命令法の論理において、同じようにポーランドの表記法を用いるとどうだろうか。'O'が「〜は事実とされるべきだ」(It ought to be made the case that)、'P'が「〜は許容される」(It is permissible that)(ふつうは'NON'として定義される:'It is not obligatory that ... not')として、さらに、'F'が命令法の「〜を事実にしなさい」(Let it be made tha case that)叙法のサイン*1として、表記するようにしてしてみよう。すると、似たような公理などが、義務論理においてもあるだろう:

  • COpFp(もしpであるべきなら、その場合、pを事実にしなさい)(If it ought to be made the case that p, then let it be made the case that p)
  • and
  • CFpPp (もしpということがされることになっているなら(ここは本来は命令法である)、その場合、pは許容される)
  • 以下のことが気づかれただろう。最後の文において、私たちは日常言語で等しいものを与える際に、'if'-節の形式を変更せねばならなかったのである。これは、私たちが以下で再びとりくむ命令法の論理の困難さを表している。しかしながら、当面のあいだは、最後のふたつの公理は、形式において最初のふたつに似ており、最初のふたつにおける文の文字である、'p'は、最後のふたつでは命令文である、'Fp'によって置き換えられるという違いがあると気に留めておこう。通常の様相論理における全ての直接法の文の文字を命令法で置き換えることは、義務論理を日常の様相論理の異種同位体(isomorphic)にする結果となり、『自由と理性』(5.5)の「聖なる」または「天使のような」道徳語--彼らがすべきでないことをするのがよいとは決して指令せず、彼らがすべきであることをよいといつも指令する存在による言語--と類似したものになるだろう。著書で説明されたように、人間の言語はそのような厳格な論理にしたがわない。しかし、この厳格な言語には、論理学者にとっての魅力がある;私たちが規範的(例. 道徳的)判断と命令法との間の関係を説明するようになったら、これをまた参照しよう。

4.5

  • 見てきたように、命令文は「もし」-節のなかに現れることができないし、またその他の多くの従属節の中にも現れることができない。それらは、しかしながら、「そして」や「しかし」や「あるいは」とともに形成された複合的な連言文の半分や、選言文において現れることができる--そうした複合的な命令文において、これらの連言が通常の直接法の文にそれらが現れる際と同じ意味を持っているかどうかはあまり明確ではないが。それらは確かに多くの場合現れる;しかし、多くの通常の直接法の論理のように、これらの連言には他にも特異な(anomalous)使用がある;たとえば「彼はパラシュートをつけ、そして、飛び降りた」(He put on his parachute and jumped out)は「彼は飛び降り、そして、パラシュートをつけた」(He jumped out and put on his parachute)という交換を許容しないし、同様に、「パラシュートをつけ、そして、飛び降りろ」という命令文も「飛び降りて、そして、パラシュートをつけろ」という変換を許容しない。両方の叙法において、私たちはそうした特異な使用を耐えなければならない。

  • しかしながら、従属節における命令法の禁止(ban)は、より深刻な困難を提示する。私たちがのちに見るように、指令主義と発話行為論による道徳の言語の解釈に共通する批判は、道徳的な文は従属節において現れる一方、「私はこれによって命ずる」(I hereby commend)のような遂行的表現は不可能である、というものである。二つの困難は類比的である。しかしながら、当面の間は、命令文は、ともかく、従属節に現れる場所が全くないと許可することにしよう。叙法のサインや署名のサイン*2は区別されなければならないが、命令法の場合においてそれらを区別することがより難しい、というのが、叙法の間のこの差の理由であるようだ。だから、叙法のサインは埋め込まれることができない(それらは文の全体を支配する)ので、同様に命令法の叙法のサインも埋め込まれることが難しいのである。

  • メインの動詞が命令法である場合における「もし」-節は、一般的であるが、直接法の叙法のサインを持つようだ:それゆえ、「もしあなたが行くなら、レインコートを持っていきなさい」においては、もし人がこのアドバイスにもとづいて行動することになっているのなら、取り除かれなければならないその「もし」節は、「私は行くんだ」(I shall go)(直接法)である*3。そこで、私たちは、次のようなモーダス・ポネンスの推論を形成することが可能である。「もし私が行くのなら、私のレインコートを取りなさい; 私は行くんだ;だから私のレインコートを取りなさい」(If I go, take my raincoat; I shall go; so take my raincoat)、と。

  • これらの考慮が関連を持つ悩ましい問いは、直接法と命令法が同じ推論で混合されることができるのか、それはどのような仕方であるか、である。ちょうど今与えられた推論におけるように、それはできるように思われる。より悩ましい問題は、「もしあなたが行くのなら、あなたはレインコートを取りなさい;行きなさい;だからあなたのレインコートを取りなさい」(If you go, take your raincoat; Go; So take your raincoat)、という混合されていない(unmixed)命令法を用いる(一見したところは妥当な)推論である。この推論が実際には妥当でない(invalid)ということは、Alf Ross(1944)によって指摘された。

  • 「すべての猫は哺乳類である」(All cats are mammals)から「もしあなたが猫を殺すなら、哺乳類を殺しないさい」(If you kill a cat, kill a mammal)のようなトリヴィアルなもの(たとえばPoincare 1913: 225; Popper 1948: 154; LM 2.5をみよ)のほかに、直接法の前提のみから命令法の結論へといたる推論はありえないと一般的には主張されてきた。この直接法-命令法推論の禁止は、多くの道徳哲学者によって、非-道徳的な言明から道徳的な言明までの推論についての禁止をふくむように拡大されてきた(Hume(1739: III. I. i)に一般的に帰属させられる、有名な「『である』から『べき』は導かれない」のように)。しかし、これは未だ論争的な状況である。

4.6

  • 命令法の分析から、規範的言明における指令的意味全般の分析へ。
    • supervenienceテーゼの再定式化。
    • ルールは推奨される状況と行為の性質をほのめかす(allude)のである。「べき」によって表現された規範的言明は、その場合、これらの性質にsupervenientしていると言われている。

4.7

  • 規範的言明には文化によってなかば固定的な記述的意味があり、そうした記述的意味に応じて規範的言明に真理値を与えることも可能である。
    • しかし、規範的言明の真理値のみが道徳性のすべてを説明する訳ではない。人々をある一定の仕方で振る舞わせる道徳性にはやはり指令的意味も説明に必要なのである。)
    • 記述的意味とそれに対応する真理値のふたつのみから、道徳性を説明する試みとして、直観主義自然主義のふたつが古典的には挙げられる。これらは不可避的にある種の相対主義に陥ってしまう。
    • また、現代の洗練された版の自然主義は、道徳的性質と非道徳的性質の形而上学的で必然的なつながりを喚起している。こちらもMoore的な開かれた問い論法の攻撃に耐えられまい。
  • 規範的原則(principle)(カントの言うところの格率(Maxim))の指令性を合理的に考え、その原則に応じて道徳用語の真理値を決定することによってはじめて、道徳性は客観的で安定的なものになるのである。

*1:Hareの用語では、tropic

*2:原文では、"the tropic or sign of mood and the neustic or sign of subscription"である。本記事では、基本的に、neusticやtropic等のヘアの用語法は用いず、適宜言い換えている。

*3:ここの訳は微妙。"the 'if'-clause that has to be detached if one is to act on this advice is 'I shall go'(inidicative)."