Edgington (2014) 条件的非平叙文について

Edgington, D. (2014). Indicative Conditionals. In The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014). Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/conditionals/

5. その他の条件的発話行為および命題的態度

  • 私たちが確認してきた条件文の理論のうちどれが、以下の他の種類の条件文に拡張できるだろうか。条件的信念だけでなく、条件的欲求、条件的恐れ等もある。条件的言明だけでなく、条件的命令や条件的約束、条件的提案、条件的質問等もある。「もし彼が電話するなら」は「もし彼が電話するなら、私はなんと言おうか」“If he calls, what shall I say?”や「もし彼が電話するなら、私は外出していると彼に伝えなさい」“If he calls, what shall I say?”、「もし彼が電話するなら、マリーは喜ぶだろう」“If he calls, Mary will be pleased”の全てにおいて、同じ役割を担っている。

条件的命令

サップの理論

  • BでないよりもBである見込みがある(more likely to)と人が考える程度に、その人はBを信じている;サップによれば、Aということの想定のもとでBであるということを信じる程度に、つまり、A&~BよりもA&Bにより見込みがあると人が考える程度に、人はAならBであるということを信じている。;そして、単に人がA&BがA&~Bよりも見込みがあると信じるちょうどその程度において、~XよりもXに見込みのあると人が信じなければならないような、命題Xというものはない。条件的欲求は、条件的信念のように見える:Bを欲求することは、~BよりもBを選好することである;AならBということを欲求することは、A&~BよりもA&Bを先行するということである;そして、単に人がA&BがA&~Bよりも選好するちょうどその程度において、~XよりもXを人が先行しなければばならないような、命題Xというものはない。
    • 例文。私は大会に参加し、私の持つ勝利の機会は非常に小さい。もし私が受賞すれば(W)、あなたがフレッドにすぐに伝える(T)ということへの欲求を私は表現する(express)。私はW&TよりもW&~Tを選好している。~(W ⊃ T)よりも(W ⊃ T)を私は必ずしも選好していない、つまり、W&~Tよりも(~W or W&T)を私は必ずしも先行していない。というのは、もし私が受賞することをまた望んでおり、そしてさらに、(~W or W&T)が真である最も見込みのある方法は、私が受賞しないことだからである。もし私が受賞しないが私の受賞する最近接可能世界においてあなたがフレッドにすぐそれを伝えるとしても、私の条件的欲求も満たされない。
  • AならBということを私が信じるなら、つまり(サップによれば)A&~BよりもA&Bにはるかにみこみがあると私が考えるなら、このことは私をBへの条件的コミットメントをなす立場に至らせる。:つまり、Aの条件的に、Bを主張する(assert)こと[という条件的コミットメントに私は至る]。Aが真であることが分かれば、私の条件的主張はBの主張の効力(force)を持つのである。もしAが偽であるなら、私の主張した命題はない。しかしながら、私は確かに条件的信念を表現している–それは私が何も言っていないかのようであるかではない。
    • 例文。「もしそのスイッチをあなたが押すなら、爆発があるだろう」“If you press that switch, there will be an explosion"と私が言い、私の聞き手が後件の条件的主張を私がなしたと考えているとしよう。この後件とは、彼女がボタンを押せば、後件の主張の効力が持つものであった。私が信頼に値し信用できると彼女が考えるなら、もし彼女がスイッチを押せば後件は真である見込みがあると彼女は考えるだろう。つまり、彼女がそれを押せば、爆発があると考える理由を彼女は獲得している。;それゆえ、ボタンを押さない理由を彼女は獲得している。

フックの理論

  • 条件的命令は、同様に、前件が真である条件で、後件の命令の効力を持つものとして、解釈されうる。
    • 例文。医者が緊急病棟にて医者が看護師に対して言う、「もし患者が朝にまだ生きていたら、包帯を換えなさい」“If the patient is still alive in the morning, change the dressing”と。
    • フックの理論では、この命令は「患者が朝になって生きていない、あるいは、あなたが包帯を換えるか、これらのどちらかが真となるようにしなさい」“Make it the case that either the patient is not alive in the morning, or you change the dressing”と同値である。看護師が患者を殺したとしても、看護師は医者の命令に従ったことになるのだろうか。
    • Jacksonの理論では、選言的な命令に加えて、医者は患者が生きていることを知ったとしても彼女が依然としてそれを命じているだろうことを示した、とされる。これは問題を解決するものではない。看護師は医者が反事実的状況において命じるだろうものに、関心を持つべきだとは考えにくいからである。

語用論的前提の利用はフックの問題を解決しない

  • フックは、条件的命令についての上記の論証に対して、私たちが語用論に訴える必要があると応じるだろう。典型的には、条件的であれ非条件的にであれ、どんな命令に対しても、暗黙裡に理解される、それに従うことについての筋の通った方法と筋の通らない方法がある; そして、患者を殺すことは、真理関数的な条件文を真とするには、全く筋の通らない方法として暗黙裡に理解されるものである。それは、実際、包帯を換える際に患者をほぼ窒息させる不適格な方法で行うようなものである。後者は明らかに命令に従っているが、意図された方法においてではない。
  • しかし、前者と同じことを言うのは、むしろはるかに語用論を引き伸ばすことになる。
    • 例文。学部長が、ある教員の雇用期間が延長されれば、カント講義を行うと承諾したとしよう。学部長はその後、その教員の雇用期間が延長されないように全ての労力を払う。これが、意図された方法ではないにしても、彼女がするように頼まれたことをしていると言うことは妥当でない。

ヤジルシの理論

  • スタルネーカーの説明では、「もし雨が降るなら、傘を持っていきなさい」“If it rains, take your umbrella”は「雨が降る最近接可能世界において、傘を持っていきなさい」“In the nearest possible world in which it rains, take your umbrella”となる。私があなたの命令を忘れ、代わりにそれを無視したくなったと考えてみよう。しかしながら、雨は降らなかった。雨の降る最近接可能世界において、私は傘を持っていっていない。スタルネーカーの説明では、私はあなたに従わなかったことになる。
  • 条件的約束についても同様である。条件的命令と約束は、他の可能世界における私の行動についての要請ではない。

条件的質問

  • 条件的質問において、前件が真であるかどうかを受け手が知っていると考えられている条件的質問と、そう考えられていない条件的質問を、私たちは区別することができる。
    • 後者の場合では、受け手は前件が真であると想定し、後件についての彼の意見を出すように頼まれている: 「もし雨が降るなら、試合は中止されますか」“If it rains, will the match be cancelled?”
    • 前者の場合–「もしロンドンに行ったことがあるなら、よかったですか」“If you have been to London, did you like it?”–では、前件が真であるなら後件の問いへ答えるように受け手は期待されている。もし前件が偽であれば、問いは執行する: 彼にとって表現すべき条件的信念は全くない。
    • 「もし子どもをお持ちなら、何人の子どもをお持ちですか」“If you have children, how many children do you have?”と尋ねるフォームに「該当しない」“Not applicable”と書く子どものいない夫婦のようなものである。あなたは最近接世界において何人の子どもを持つか問われているわけではない。また、「私が子どもを持つ ⊃ 私は18人の子どもを持つ」“I have children ⊃ I have 17 children”と答えることも真ではない。あなたが確かに子どもを持つように信じるようになったとしたら、あなたは後件について何を信じるかを問われている訳ではない。

結論

  • これらの他の条件文を含むように私たちの視野を広げることは、サップの見解にしたがう傾向がある。どんな命題的態度も、定言的に主張されうるし、また想定のもとでも主張なされうる。どんな発話行為も、無条件に遂行されうるし、他の何かの条件のもと遂行もされうる。「もし」の私たちの使用は全体として、条件的命題を換気すること無しの方が、より上手く、そして統一的に説明されるように思われる。

Edgington (2014) 直接法条件文

Edgington, D. (2014). Indicative Conditionals. In The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014). Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/conditionals/

はしがき

直接法(the indicative mood)の文という、言明をなすために適切な文を取り上げてみよう:「私たちは家に10時までいるだろう」(We’ll be home by ten)、「トムは晩御飯を作った」(Tom cooked the dinner)。それに条件節(a conditional clause)をつけると、あなたは条件的言明(a conditional statement)をなす言明を得ることになる:「もし電車が時間通りなら、私たちは家に10時までいるだろう」(We’ll be home by ten if the train is on time)、「マリーがディナーを作らなかったなら、トムがそれを作った」(If Mary didn’t cook the dinner, Tom cooked it)。それゆえ、「もしAなら、Cだ」(If A, C)や「Cである、もしAなら」(C if A)という条件文は2つの取り込まれた文または文のような節を持つことになる。Aの部分は前件(antecedent)と呼ばれ、Cの部分は後件(consequent)と呼ばれる。もしあなたがAとCを理解し、条件文の構成を(私たちみなが幼い頃にするのと同じように)修得したならば、あなたは「もしAなら、Cだ」を理解している。辞書を参照すると、「〜という条件で; である場合に限り; と想定すると」(on condition that; provided that; supposing that)が出てくる。これらは十全な同義語である。しかし私たちは同義語以上のものを求めている。条件文の理論は、以下を解明する条件文の構成の説明を与えることをねらっている。条件的判断が受容可能なのはいつか、条件文に関わるどの推論がよい推論であるのか、そして、なぜ言語的構成がこれほど重要なのか[こうしたことの解明を条件文の理論はねらっている]。素晴らしく巧妙な研究の徹底にも関わらず、これはかなり議論の余地のある主題であり続けている。

1. 導入

直接法条件文のみを扱い、反事実的条件文を扱わない

  • まず、私たちの議論する領域を限定することからはじめよう。
    • 事例として最初に用いた例文は、伝統的に「直接法条件文(indicative conditionals)」と呼ばれてきた。
    • 他にも、「叙想的(subjunctive)」条件文、あるいは、「反事実的(counterfactual)」条件文もある。
      • 例文。「マリーがディナーをつくらなかったなら、トムがそれをしただろう」(“Tom would have cooked the dinner if Mary had not done so”)
      • 例文。「もし電車が時間通りだったなら、私たちは10時まで家にいただろう」(“We would have been home by ten if the train had been on time”)
      • 反事実的条件文は別の項の主題となるだろうし、それらに取り組む理論はここでは議論されない。
    • 直接法条件文と反事実的条件文との間に何らかの違いがあるということは、以下のような例文のペアによって示される。
      • 例文。「オズワルドがケネディを殺さなかったのなら、別の誰かが殺した」(“If Oswald didn’t kill Kennedy, someone else did”)
      • 例文。「もしオズワルドがケネディを殺していなかったのなら、別の誰かが殺していただろう」“If Oswald hadn’t killed Kennedy, someone else would have”。
      • 前者の例文を受容するが、後者の例文を拒絶することは、あなたにとって可能である(Adams (1970))。*1
      • 一方で、前者と後者との間の違いがそれほど大きくないということは、次のような事例によって示されることができる。
        • 例文。「そこに入るな」"Don’t go in there"と私が言い、「もしあなたが入るならあなたは怪我をするだろう」"If you go in you will get hurt"と述べる。あなたは懐疑的なようだが外にとどまっていると、屋根が崩落して大きな騒音がする。「わかっただろ」"You see"、と私が言い、「もしあなたが入っていたならあなたは怪我をしていただろう。私はそう言ったんだ」"If you had gone in you would have got hurt. I told you so.“と述べる。
  • 条件文の最適な分類法は、論争を呼ぶ問題である。
    • 一部の論者によれば、未来志向の「直接法(indicatives)」(主節に「だろう(will)」を持つもの)は、「接続法」(主節に「だっただろう(would)」を持つもの)に属しており、他の"直接法"には属していない。
      • (Gibbard (1981, pp. 222-6), Dudman (1984, 1988), Bennett (1988)を参照せよ。Bennett (1995)は心変わりをしている。Jackson (1990)は伝統的見解を擁護している。)
    • 「だろうs」の典型的なものから「だっただろうs」への容易な遷移は、確かに、[彼ら論者が]説明するデータである。
    • しかし、(私の見解では)過去形、現在形、あるいは未来形についての平易な(straightforward)言明に、条件節がつけられたものは–つまり直接法条件文の伝統的なクラスは–確かに単一の意味論的種を構成する。
    • 特定の下位区分に限った場合、この項で議論される論者たちの説明は、とりたてて良かったり悪かったりするわけではない。

条件的命令等を扱わず、条件的言明のみを扱う

条件的言明だけでなく、条件的命令や条件的約束、条件的提案、条件的質問等もある。条件的信念だけでなく、条件的希望、条件的恐れ等もある。私たちの焦点は条件的言明と、それが表現する条件的信念である。しかし、どの論者がもっとも自然に自身の理論を他の種類の条件文に拡張可能かを私たちは考察するだろう。

今後の展開

  • 3種類の理論が議論される。
    • §2では、条件文の真理条件についての、真理機能的(truth-functional)説明と非真理機能的(non-truth-functional)な説明を私たちは比較する。
    • §3では想定的理論(the suppositional theory)と呼ばれる理論を私たちは検討する。この理論では、条件的判断は本質的に想定と関わっている。
      • この理論が展開するの後には、真理条件のある言明として条件文を構成することと、この理論が両立しないことが見えてくるだろう。
    • §4では、真理条件説の提唱者からの応答を見る。
    • §5では、より幅広い種類の、条件的発話行為および命題的態度を、考察する。

「ならば」の記号の使い分け

記号 どの条件文か 提唱者の呼び方
A⊃B 真理機能的条件文 フック(Hook)
A→B 非真理機能的条件文 ヤジルシ(Arrow)
A⇒B 想定的理論の条件文 サップ(Supp)

否定は~であらわす。

2. 直接法条件文に対する真理条件

2.1 2種類の真理条件

本節では真理条件的意味論が正しいと仮定する

  • 真理条件から文の意味を捉えるアプローチは、複合文の意味を詳細に特定する点に強みがある。複合文の部分の真理条件から、その複合文の全体の真理条件を特定できるためである。
    • この節を通して、条件文に対するこのアプローチが正しいと仮定しよう。
    • 私たちの問いはこうなるだろう:「もしAなら、Bである」の真理条件は、「AかつB」"A and B"「AまたはB」"A or B"「Aではない」"It is not the case that A"と同様に、単純で、外延的で、真理機能的種類なのだろうか。

    • つまり、AおよびBの真理値は、「もしAなら、Bである」の真理値を決定するのだろうか。それとも、「AであるのはBだからだ」"A because B"および「B以前にAである」"A before B"、「Aである可能性がある」"It is possible that A"と同様に、非真理機能的なのだろうか。つまり、AとBの真理値は、いくつかの場合では、「もしAなら、Bである」の真理値を未決なままにするのだろうか。

真理機能的解釈の位置付け

  • 条件文の真理機能的理論は、Fregeの新しい論理 (1879)にとって不可欠であった。
    • Russell(彼が「実質含意(material implication)」と呼んだ)、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、そして論理実証主義者ら、によってそれは熱心に引き継がれている。いまでは論理学の全ての教科書に載っている。
    • 概して、これが明白に正しい、と学生に思われる訳ではない。これは論理学の最初の驚きだろう。
    • しかし、多くの状況でこれは立派な働きをするものである。そして、多くの人々がこれを擁護している。
  • これは著しく単純な理論である:Aが真でBが偽である時に、「もしAならBである」は偽である。全ての他の場合では、「もしAならBである」は正しい、というものだ。
    • それゆえ、これは~(A&B)および~A or Bと同値である。A⊃Bは約定的にこうした真理条件を持っている。
  • もし「もし」が真理機能的であれば、この解釈は、真理値表の組み合わせの中で最適である。
    • 第一に、Aが真でありかつBが偽である時に、「もしAならBである」が偽であることに、議論の余地はない。推論の基本的な規則はモーダス・ポネンスである: 「もしAならBである」およびAから、私たちはBを推論することができる。Aが真で、Bが偽、さらに「もしAならBである」が偽なら、この推論は妥当ではないだろう。
    • 第二に、「もしAならBである」がAとBがそれぞれ(真、真)、(偽、真)、(偽、偽)である場合にも、時には真であることにも議論の余地はない。「もしそれが正方形なら、それには4つの角がある」という、未知の幾何学図形について言われた発言は、その図形が正方形か長方形か三角形かに関係なく、真である。真理機能性を想定すると–つまり条件文の真理値がその部分の真理値によって決定されると想定すると–条件文の要素が真理値のこれらの組み合わせを持つときにはいつも、その条件文が真であるということが導かれるのである。

非真理機能的解釈の位置付け

  • 非真理機能的説明も、Aが真でBが偽である時に、「もしAならBである」が偽であるということを認める; この理論はさらに、他の3つの真理値の組み合わせに対しても、条件文が時には真であるということを認める。; しかし、これらの3つの組み合わせにおいて常に、条件文が真であるということ、をこの理論はを否定する。
    • 彼らの中には、AとBが両方とも真である場合には、「もしAならBである」が真でなければならないという点で、真理機能論者と同意するものもいる。一方で、AとBとの間のさらなる関係性を要求し、その点に同意しないものもいる(Read (1995)を参照せよ)。
    • しかし、この論争に私たちは関わる必要がない。非真理機能的解釈についての以下の議論に関して、重要な点は、Aが偽である時に、「もしAならBである」が真あるいは偽でありうる、という点のみである。
      • 例文。(*)「もしきみがその電線に触れるなら、きみは電気ショックを受けるだろう」(“If you touch that wire, you will get an electric shock”)と私が言う。きみはそれに触らない。私の発言は真か偽のどちらだっただろうか。(9)
      • 非真理機能論者によると、それは電線に電気が触れていたかとか、きみが電気から絶縁されていたかとか、そうしたことによって、この条件文の真理条件が左右される。
    • Robert Stalnaker (1968)の説明はこのタイプである: あなたが電線に触る可能世界で、かつ、これ以外はミニマルに実際の状況と異なる可能世界を考えてみよう。(*)の真偽は、その可能世界においてあなたが電気ショックを受けるかどうかに応じて決まる。

2種類の真理条件を真理値表に落とし込む

  • AとBを2つの独立した別個の命題としよう。以下の4列は4つの両立不可能な論理的可能性を表している。
    • T/Fは、両方の真理値がその割り当てに置いて可能であることを意味している。

真理機能的解釈

(i) (ii) (iii)
A B A⊃B ~A⊃B A⊃~B
1. T T T T F
2. T F F T T
3. F T T T T
4. F F T F T

非真理機能的解釈

(iv) (v) (vi)
A B A→B ~A→B A→~B
1. T T T T/F F
2. T F F T/F T
3. F T T/F T T/F
4. F F T/F F T/F

2.2 真理機能を支持する論証

条件文の真理機能を利用できれば

  • 主要な論証が指摘するのは、以下の事実である。その事実とは、真理機能的真理条件の充足についてのミニマルな知識が、もしAならBであるということについての知識に対して十分(adequate)であるという事実である。 * 例。x, yという2つの球が袋に入っている。あなたは少なくとも1つが赤色だということだけを知っている。これで、もしxが赤でないならyが赤色である、ということをあなたが知るのに十分だ。両方が赤でないということだけ知っていても、同様に、xが赤ならyが赤でないとあなたには分かる。

  • あなたがAとBの真理値の組み合わせについて何も知らない状態からはじまると考えてみよう。次に、AかBかのどちらかが真であるとあなたは知る。ただし、これ以上に強いどんな信念もあなたは持たない。特に、Aが真か偽かのどちらかであるかについて、あなたは堅固な信念を全く持たない。この状態では、あなたは第4行を除外(rule out)しているのだ。その他の可能性は開かれままである。この場合では、~AならBである、ということをあなたが推論することは、直観的に見て正当である。左側のAとBの可能性を見よう。あなたはAとB両方が偽である可能性を除外した。だからもしAが偽なら、唯一残る可能性は、Bが真であることだけだ。
  • 真理機能論者(フックと呼ぼう)はこれを正しく説明する。(ii)列を見よう。行4のみを除去すると、あなたは~A⊃Bが偽となる唯一の可能性を除去したことになる。ここでは、~A⊃Bが真であると結論することができるほどあなたは十分知っていることになる。

条件文の真理機能を利用できなければ

  • 非真理機能論者(ヤジルシと呼ぼう)はこれを誤って説明してしまう。列(v)を見てみよう。同様に第4行を削除しても、除外されていない他の場合において、~A→Bが偽となる何らかの可能性が残ってしまっている。なぜなら、~A→Bが偽となる行4に対し、両立不可能である行1行2の可能性たちを削除できていないからである。
  • 同様の論点が、否定された連言に対しても提示できる。あなたは確かに~(A&B)を分かるだろうが、それ以上強いものは何もわからないとしよう。あなたは第1行のみを除外する。もしAならBである、をあなたは正当に推論することができる。
    • フックはこれを正しく説明していた。列(iii)において、私たちが行1を削除すれば、A⊃~Bが真となる可能性だけが残る。
    • ヤジルシはこれを誤って説明してしまう。列(vi)において、行1を削除しても、A→~Bが偽となる可能性は残ったままである。同様の論証はAならばBに関して、行2を削除する場合にも考えられる。

フックと自然演繹法

  • フックに有利な2つ目の論証は、自然演繹の様式にあらわれる。
    • 条件付き証明(Conditional Proof, CP)の規則は以下のように述べられる。もしXおよびYの前提からZが導かれるなら、その場合、前提Xから「もしYなら、Zである」"If Y, Z"が導かれる。いま、~(A&B)、A、およびBという3つの前提は、矛盾を含意する。だから、帰謬法により、~(A&B)、および、Aから、私たちは~Bを結論することができる。だから、CPを用いると、~(A&B)は「もしAなら、Bである」を含意する。二重否定除去を用いれば、もしAなら、Bであるを導くことも可能である。
  • 条件付き証明は健全であるように思われる。しかし、真理機能的な解釈以上に強い「もし」の解釈に対して、CPが妥当であるものは無い–少なくとも私たちが&~を古典的な方法で扱い、次の推論(I)の妥当性を受容する限りは。
    • (I)~(A&B); A; ゆえに B
    • CPを(I)に適用すると、~(A&B)の前提から、もしAならばBである、が導かれる。すなわち、A⊃Bは、もしAならばBであるを含意するのである。

2.3 真理機能にアンチの論証

実質含意のパラドックスとは

  • よく知られた「実質含意のパラドックス(paradoxes of material implication)」とは、フックの理論にしたがうと、Aが偽であることが、「もしAならばB」の真に対して十分になってしまうことである。列(i)の最後の2行を見ると、Aが偽であるすべての可能な状況において、A⊃Bが真である。「彼女が電線に触れた」が偽であることが、「もし彼女が電線に触れたなら彼女はショックを受けた」を含意するということが、正しくありうるだろうか。
    • フックに可能な応答: Aという前提を私たちが確かに知っていると想定し、結論Bが確かに導かれるかどうかが、条件文の直観的な妥当性のテストとなる。~Aが確かであるのなら、そもそも私たちはAという条件節を必要としないはずだ。直接の直観的なテストは、それゆえ、~Aから「もしAならBである」が導かれる可どうかについて沈黙したままなのである。条件文についてのスムーズでシンプルな分析がこうした理論的帰結をもたらすのなら、私たちはその帰結にうまく合わせてやっていくしかない。
    • フックに可能な応答2: フックがこう応じるとしても、さらに反直観的な反例の提示はまだ可能である。しかし、そもそもこうした反例を敢えて重要視しないことによって応じることもフックは可能かもしれない。には簡潔さと明晰さの点で自然言語の「もし」よりもむしろ優れているのである。ひょっとしたら、正確性と明晰性という私たちの利益にもとずくと、真剣な推論では、なかなか捉えにくい「もし」を、そのすっきりした近親者のに置き換えるべきかもしれない。
  • これは疑いようもなく、Fregeの態度だった。Fregeの第一の関心は、数学的推論に適切なように理想化された言語において定式化される、論理の体系を構築することにあった。自然言語の「もしAなら、Bである」はA⊃Bとは異なり、意図された働きを十分担わない。そうであるなら、自然言語の方に瑕疵がある、ということになる。
    • 数学をするという目的に限ると、についてのFregeの判断は恐らく正しかった。の主要な欠陥は数学において、それほど大きな問題とならないからだ。

実質含意のパラドックスの許容しがたさ

  • しかし、経験的な事柄についての条件的判断を考察すると、の奇妙さを許容することはより困難になる。
    • その違いはこうだ: 経験的な世界について考える際、それほど確実ではない度合いの確信を持ちながら、命題を受容したり拒絶したりすることを、私たちはしばしば行うのである。

    • 確かに、前件が偽であると私たちの確信する場合は無視できよう。しかし、前件が偽である可能性がある(likely)と私たちが考えている条件文の使用を無視することはできない。私たちはこれらをしばしば使用し、いくつかを受容し、そして他のものを拒絶しているのである。
      • 例文。あなたは去りゆくパートナーにこう言う。「もう私が連絡を取る必要は無いだろうと私は思ってるんだけど、もしそうするなら、私は電話番号が必要だな」"I think I won’t need to get in touch, but if I do, I shall need a phone number"。ここで、「もしそうするのなら私はテレパシーでなんとかするよ」"If I do I’ll manage by telepathy"とは続けない。
      • 例文。「ジョンはマリーに話しかけたんだと私は思う; もし彼がそうなかったのなら彼は彼女に手紙を書いたんだ」(“I think John spoke to Mary; if he didn’t he wrote to her”)とは言うが、「もしそうじゃないなら、彼は彼女を撃ったんだ」とは言わない。
    • フックの理論では、起こる可能性のあまりない(unlikely)前件を持つすべての条件文が真である、という不幸な帰結を持っている。~Aということが起こる可能性があると考えることは、A⊃Bの真理に対する十分条件が存在するということが起こる可能性がある、と考えることになってしまうのだ。
      • 例文。共和党が次の選挙で勝利しないだろう(~R)と考え、さらに、もし彼らが勝てば彼らが所得税を倍にする(もしRならD)、という考えを、拒絶する人。フックによれば、この人物はひどく不整合な見解を保持していることになる。なぜなら、~Rの可能性が高いと考える人は、{~R, D}の少なくとも1つの命題が真であるという可能性が高いと考えねばならないためである。しかし、それはまさにR⊃Dと考えることである(逆に、R⊃Dの拒絶を分析することからはじめても、これはR&~Dの受容であるのでおかしなことになる)。
  • フックの理論は、有能で知的な人々の思考パターンにほとんど適さないだけではない。私たちがとうまくやっていくことができるとはとても主張されえない。それどころか、フックの理論では、私たちは知的に無力となるだろう。私たちは、前件が偽である可能性の高い条件文に関して、信用できる条件文と信用できない条件文とを区別する力を持たない、ということになるだろう。
  • ヤジルシはこうした問題を持たない。ヤジルシの理論は、Aが偽な場合にA→Bが偽でもありうるように許可することによって、この問題を回避するように設計されている。
  • 実質含意のもう一つのパラドックスは、フックの理論に従うと、真である後件を持つ全ての条件文が、真となってしまうというものである: BからA⊃Bが導かれるのだ。
    • こちらはそれほど明白に受容不可能な訳ではないが、Bに対して確信を持つ場合ではなく、Bに対してほぼ確信を持つ場合を考察すれば、この問題は顕著になる。
      • 例文。スーが今講義していると私は考える。もしスーがひどく怪我をしているのなら、私は彼女が今講義しているとは思わない。だから私はこの条件文を拒絶する。しかし、フックの説明では、この条件文の真理のための十分条件が存在していると、私が考えている、ということになる。

2.4 語用論的観点からGriceが行った、真理機能の擁護

会話上の適切さへのGriceの注目

  • よく知られているように、H. P. Griceは、1967年のWilliam James講義(Grice (1989)を参照せよ。またThomson (1990)を参照せよ)にて、真理機能的説明を擁護した。会話において自分が従うべく期待されている基準を考慮すると、真理を語るが聞き手をミスリードする方法は数多くある。1つの方法は、あなたの立場であなたが言うべき適切なことよりも、弱く他の何らかのことを言うことである。
    • 例文。選言を考えてみよう。ジョンがどこにいるのかが私に尋ねられる。私は「彼はパブか図書館かのどちらかにいる」(“He is either in the pub or in the library”)と答える。しかし実は、彼がパブいることが確かだと私は思っており、図書館には決していないと私は知っている。私の聞き手は、先ほどの発言が、私の立場において私が提供すべき最も正確な情報だと思い、「もし彼がパブにいなければ図書館にいるんだな」“If he’s not in the pub he’s in the library”という真理(ひとまず真理だと想定しよう)を結論する。
    • グライスによれば、この条件文は彼がパブにいれば確かに真であるが、その事実に基いてミスリーディングに主張されている。
    • 例文。David Lewis (1976, p. 143)によるもう1つの例。私は言う。「これらを食べて生きのびることを、あなたはしないだろう」“You won’t eat those and live”。健康に良くおいしいマッシュルームについて言っている。あなたが私の発言に従いそれを食べ残すことを私は知りながら、私はこう述べている。私は嘘を付いていないが、やはりあなたをミスリードさせている。
  • 次に、Griceは人がある命題を信じることが正当化されている(justified in believing a propositon)状況へと関心を向けさせる。その命題とは、しかしながら、標準的な情況では、その人が言えば筋の通らない(unreasonable)であるだろうものである。彼の教訓は有益で重要だ。私が思うに、彼は選言と否定された連言について正しい。ジョンがパブにいると信じながら、「彼はパブか図書館かのどちらかにいる」と私が整合的に信じないことはできない; もし私がこの状況において何らかの認識的態度をこの命題に対して持つのなら、その信念を主張することがどれほど不適切であっても、それはひとつの信念である。「これらを食べて生きのびることを、あなたはしないだろう」も同様だ。

Griceの条件文擁護は実質含意のパラドクスの回避に成功していない

  • しかし、真理機能的な条件文の持つ困難さが、会話上の不適切な発言の観点から説明されつくされる、というのは、妥当ではない。真理機能的な条件文の持つ困難さは、信念のレベルで生じるのだ。ジョンがパブにいると考えながら、私は不合理性(irrationality)をおかさずに、「もし彼がパブにいなければ彼は図書館にいるんだな」と信じないことができる。あなたがあるマッシュルームを食べないと信じながら、「もしあなたがマッシュルームを食べれば、あなたは死ぬ」"If you eat them you will die”を不合理性をおかさずに拒絶することができる。人々が受け入れる標準(norm)、についての事実として、これらの主張はテストされることができる。
  • 十分に適切なテストは、協力的な人物を考えてみることだ。彼女は、あなたが彼女に問う命題についての彼女の意見にのみ、あなたが関心を持っていることを理解している。彼女がどんな発言をするのが筋が通っているだろうかに、あなたの興味がないことを理解している。そして、彼女はどの条件分を彼女が受容するかに言及する。私たちは、「共和党が勝利するだろう」、および、「もし彼らが勝てば彼らは所得税を倍にする」という2つの命題に同意しないような人物に、非論理的だと言う烙印を本当に押すのだろうか[いや押さない]。つまり、結局は会話の適切さに注目したからと言って、実質含意のパラドクスにはじまる条件文の持つ困難は解消されないのである。
  • ただ、Grice的現象は現実のものである。確かに、誰の条件文の説明においても、その条件文が正当に信じられるが、もし述べられればミスリーディングとなるものはある。
    • 例文。試合が開催されるかどうかを誰かが私に訊く。私は、「もし雨が降れば、試合は中止されるだろう」と答える。しかし、私は全ての選手がインフルエンザにかかっていると知っており、雨の有無にかかわらず試合が中止されるだろうと信じている。私は自分の信じることを言っているが、やはり聞き手をミスリードしている。
    • ただ、このことはやはりフックの正しさを例証するものではない。私は試合がキャンセルされるだろうとは信じているが、 すべての選手が急速に回復すれば試合が中止される、ということを、私は信じていない。

2.5 条件文の複合物: フックとヤジルシにとっての問題

フックにとっての問題: 真のはずなのに真と言えない埋め込み文脈

  • ~(A⊃B)A&~Bと同値である。直観的に見て、未知の幾何学図形について、以下のことをあなたは言える。「以下のことは事実ではない。もしそれが五角形なら、それには6つの角がある」“It’s not the case that if it’s a pentagon, it has six sides”、と。しかし、フックの観点からすれば、あなたは誤りであるかもしれない。なぜなら、それは五角形ではないのかもしれないので、その場合には、それが五角形であればそれが6つの角を持つ、ということが真であるからだ。
  • Gibbard (1981, pp. 235-6)からの別の問題の例: 「もしこのメガネを落としていたならそれが壊れたなら、それはもろい」“If it broke if it was dropped, it was fragile”とあなたが言う。あなたはその前に、その眼鏡を廊下の上で保持していた。この条件文は理にかなっているように思われる。しかし、フックの観点からすると、もしその眼鏡が落とされておらず、そしてもろくなかったなら、その条件文は真の前件(条件節に埋め込まれた条件文)と、偽の後件を持つことになる。そして、それゆえ、偽であったということになる。
  • Griceの戦略は、(フックの観点では)真であると私たちの信じる理由を私たちの持つある条件文を、なぜ私たちが主張しないか、を説明するものであった。上記の2つの場合では、その問題は逆になっている: 私たちが確信を持ち主張し受容する条件文の複合物(compound)がある。しかし、フックの観点では、私たちはそれが真であると信じる理由を持っていないのである。

ヤジルシにとっての問題: Import-Export原理

  • ヤジルシにとって、上記の例は問題ではない。しかし、埋め込まれた条件文の他の場合には、逆方向に相当するものがある。
    • 2つの例文。両方とも直観的に見ると同値である;
      • (i) If (A&B), C.
      • (ii) If A, then if B, C.
      • McGee (1985)にしたがい、私は(i)と(ii)が同値であるという原理をImport-Export 原理(Principle), あるいは、"Import-Export"と省略して呼ぼう。
      • 例文。「もしマリーが来るなら、その場合、もしジョンが早く去る必要がないなら、ブリッジ[ゲーム]を私たちはしよう」“If Mary comes then if John doesn’t have to leave early we will play Bridge”;
      • 「もしマリーが来る、かつ、ジョンが早く去る必要がないなら、ブリッジ[ゲーム]を私たちはしよう」“If Mary comes and John doesn’t have to leave early we will play Bridge”
  • フックにおいては、Import-Exportは妥当である(練習問題: 真理値表をつくって証明をしなさい)。Gibbard (1981, pp. 234–5) は、⊃よりも強い真理条件を持つ持つ条件文において、Import-Exportが妥当ではない、ということを証明した。
  • Import-Exportがいくつかの「もし」の解釈において妥当であると想定しよう。証明の鍵は、以下の式(1)である。
    • (1) If (A⊃B) then (if A, B).
  • Import-Exportでは、(1)は(2)と同値だ。
    • (2) If *2 & A) then B.
  • (2)の前件はその後件を含意する。だから(2)は論理的真理である。だからImport-Exportによって、(1)は論理的真理となる。「もし」のどんな解釈においても、「もしAならば、Bである」は(A ⊃ B)を含意する。だから (1)は(3)を含意する。
    • (3) (A ⊃ B) ⊃ (if A, B).
  • だから(3)は論理的真理である。つまり、(A ⊃ B)というその前件が真で、(if A, B)というその後件が偽である可能な状況は全くない。つまり、(A ⊃ B)は、「もしAなら、Bである」を含意するのである。

2節のまとめと今後の展開

ここまで見てきた中では、どちらの種類の真理条件も、完全に満足の行くものだと判明していない。私たちはまだ、Jacksonによるフック擁護、2.2項で挙げられた、非真理機能的真理条件についての問題へのStalnakerによる応答を考察しなければならない。これらは4節まで延期されている。なぜなら、それらは3節で展開する考察に左右されるためである。

*1:【コメント】この辺りの感覚は英語非ネイティブにとってかなり分かりづらいように思います。言わんとしていることは、恐らくこういうことではないでしょうか。 前者の例文は、「ケネディ暗殺事件の犯人が実はオズワルドでなかったとしたら、他の真犯人がケネディを暗殺したということ」を表わしているように読めます(なぜなら、実際にケネディ暗殺事件は起きているので、犯人がいなければおかしなことになるから)。一方、後者の例文は、「もしオズワルドがケネディの暗殺を企てなかったとしても、CIA等他の組織がどのみちケネディを暗殺していただろう」という予想を表しているようにも読めます。

*2:A⊃B

Price(2014) Hareの命令文の論理

Price, A. (2014). Richard Mervyn Hare. In The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016). Metaphysics Research Lab, Stanford University. (First published in 2014)https://plato.stanford.edu/archives/win2016/entries/hare/

3. 命令の論理

  • Hareの命令文の論理を基礎づけようとする試みは、革新的であったが問題含みであった。
    • ひとつの不確実性はその研究領域についてである。
    • 彼が想定するのは、命令(command)、指示(order)、教示(instruction)、助言を与えること(givings of advice)にわたる、するように言う(tellling to)という–欲求や意図を形成する–類(genus)があるということである。これらは、情報を伝達し、信念や知識の状態を表出するということを言う(telling that)と対比される適合の方向性(direction of fit)あるいは一致の義務(onus of match)を共有する点において、同じものに属している。
    • 大雑把に言うと、もし私がpであるということをあなたに言い、そしてpが偽であるなら、その場合、どちらかと言うと私の発話こそが順序から外れている(out of order); 一方、もし私があなたにXをするように言い、そしてあなたがXをしなければ、その場合、どちらかとう言うとあなたの行為こそが秩序から外れている。
    • 一般的なアイディアは以下である。もし私があなたにpということを言えば、私たちの間でpがqを導出する(entail)ということが私たちの間で共有する知識である場合、私はqということをあなたに潜在的に(implicitly)言っている。これとちょうど同様に、もし私があなたにXをすりょうに言えば、私はあなたにYをするように潜在的に言っている。私たちがお互いに知っているものが–まあ、これは決定される必要があるものだが–である場合である。
  • 潜在的な指令(implicitly prescribing)の観念が、どんな命令文の論理を決定するのにも失敗してしまうのは間違いない。Hareの研究の後の論文は、様々な問題の場合に焦点をあてている。ここで、私はこれらの内3つを考察しよう。それらの全てが、Hareによって提案されたか、提案されることが可能であるような、可能な解決法を認めるものである。

(1) ロスのパラドックスについて*1

  • 最も単純な例は命令文にのみ関わる。これらは、単純な考えを誘うかもしれない。その考えとは、ひとつの命令文がもうひとつの命令文を導出するのが、2番目の命令文もまた充足される(satisfied)こと無しで1番目の命令文が充足されることができない場合である、ということである(Hareはこれを「充足の論理」として同定した(参照))。これは、以下の場合においてもっともらしく見える。
(A)  Do X and Y.
     So, do X.

しかしながら、こちらはあまりもっともらしくないように見えるかもしれない。

(B)  Do X.
     So, Do X or Y.
  • (Hare(1967)は後者の例を「手紙を投函しなさい;だから、手紙を投函しなさい、あるいは、それを燃やしなさい」という事例として分析している)
  • しかし、(A)において、結論が満たされること無しで前提が満たされることができないということがシンであるように、(B)においてもそれは等しく真である。さらに、対偶と置換(substitution)により、(B)は(A)から導かれることができる。もし(A)が妥当なら、©も同じように妥当であるべきである。
(C)  Don't do X.
     So, don't (do X and Y)
     So, do not X or not Y.
  • その場合、私たちは"do"によって"don’t"を置き換えるだけで、私たちは(B)を持つことになる。
  • Williams(1962)は、(B)の結論が「許可的な予想」(permissive presupposision)をもたらすという根拠から、(B)が妥当でないと判断した。Hareは、許可が、"Do X"という前提によって定義される文脈によってキャンセルされる会話的な含意(conversational implicature)の根拠から、それを擁護した。しかし、(A)でさえ、その見かけほど妥当ではない。この例を考えてみよう(これはBob Haleからの事例である):
(D)  Light the fuse and step back three paces.
     So, light the fuse.
  • 結論がその前提において司令されているものの部分であることは確かに真である。
    • しかし、私は誰かにフーズに点火するよう言うことをためらうかもしれない。以下のような場合では。彼の熱中しやすい傾向を考慮すると、彼が最も行いそうなのは、もし彼がフューズに点火したら、後ろにさがることをおぼえていないだろうということである、ということを、私が知っている場合では。
    • そして、私がある人に対し、するよう顕在的に(explicitly)言うのが嫌であるだろうようなあることを、するようにその人に潜在的に言うことが、どのように可能になるだろうか?
  • しかしながら、また、Hareは恐らく次のように言うことができるだろう。、聞き手がフューズに添加することに集中すべきであるという、導出された"Light the fuse"において潜在的である、何らかの示唆が、彼が後ろにさがるという最初の教示によって、文脈において修正されている、と彼は述べることができるだろう。

(2) 混合推論

  • 新しい問題が生じるのは、命令文だけでなく直接法文がかかわる混合推論を私たちが考える時である。
  • これらに対して充足の論理を拡大する最も単純な方法は、次のような規則によってである:前提のセットが結論を導出するのは、結論が真であるか(直接法文の場合)充足されるか(命令文の場合)する事抜きで、前提もまた真でありえないまたは充足されることがありえない、そんな場合である。
    • しかしながら、私たちはまた、命令文の結論が、純粋な直接法文の前提からは導かれることができない、というある事例(既にHare(1952)において述べられていた)を含む、制限的な規則を私たちは必要とする–しかし、それは疑いようもなく単純過ぎる。
  • 以下の事例を考慮してみよう。この事例はある意図から別の意図にいたる推論にかかわっている。Hareが自分に割り当てられた(self-adressed)意図を命令文であらわしていたことを考慮し、私たちは以下の推論を考えることができる。
(E)  Let me make a cloak.
     If I make a cloak, I must do such-and-such.
     So, let me do such-and-such.

ここでは、もし二番目の前提が真であれば、結論も充足されること抜きで最初の前提は充足されることができない。;だから、推論は充足の論理を進むことができる。

(F)  Let me get drunk.
     Whoever gets drunk is bound to have a hangover.
     So, let me have a hangover.

Hareはこれら全てに何を言うだろうか? 彼ができる応答は、自分に割り当てられた命令文が意図を表出しうる一方、それは失敗しうるものであるということ、そして、これは指令の論理に全く制限をかけるものではないということである。もし私が、酔っ払うことが二日酔いを引き起こすことを知りながら、誰かに酔っ払うように言えば、私は、たとえこれを意図すること抜きでも、彼が二日酔いを持つように言っている

(3)条件文の区別

  • 私たちの全てが直面する問題は、2つの条件的命令文を調和させる方法である(事例はPrice 2008である。Hare自身もこの条件文は1968年の議論において検討している)。
(a)  If you want to get drunk every evening, you should work in a bar.
(b)  If you want to get drunk every evening, you shouldn't work in a bar.
  • これらの2文は矛盾であるように見えるが、不整合である必要はない:
    • (a)は、バーで働くことがあなたが毎晩酔っ払うことができる唯一の方法である、という点で、真であるかもしれない;
    • (b)は、以下の点で真であるかもしれない。あなたが弱い意志のせいでアルコール中毒になる恐れがあることを考慮すれば、バーで働かないことが、あなたの健康を維持するための必要条件であるという点である(あなたの健康は、あなたが大変関心を持っている(are)ことか、あなたが関心を持つべき(ought)ことかのどちらかである)。
  • 私たちは、後件を切り離す方法を問うことによって、もっとも明確に(a)と(b)を区別することができる。これは、(b)の場合には、まっすぐにすすむ(straightforward)
    • :人は、(b)から、"You (do) want to get drunk every evening"を主張することによって、"You shouldn’t work in a bar"を切り離すことができる。
    • しかし、私たちはどのうように(a)の後件を切り離すことができるのだろうか。
  • ひとつの解答は、ひとが切り離すことができないというものである。もうひとつの別の解答は、ひとはたしかに切り離すことができるが、それが可能なのは、"You should work in a bar"という後件を非常に限定的(qualified)で文脈的(contextualized)な意味においてである
    • ;それゆえ、人は"You should work in a bar"を言うことができるかもしれないが、それが可能なのは、"should"が含意する(connote)適合性(fittingness)が、該当の目標(goal)に対する関係において(in relation to)存在する場合のみである。
    • (だから、もちろん、バーで働くことのどんな推奨も導かれない。)
  • しかしながら、Hareは自分自身に大胆な解決策の余地を認めている。
    • 彼は、"you want to get drunk every evening"という節が(a)と(b)で異なる意味を持つと考える。
    • (a)では、あなたに欲求を割り当てる埋め込まれた直接法こそが、なぜ"You want to get drunk every evening"と主張することによって後件が切り離されるかの、理由である。
    • (b)では、ある埋め込まれた命令文こそが、あなたに毎晩酔っ払わせるよう助言するのにその文単独で役立つのである
    • ;それゆえ、後件は切り離されるが、それは"Get drunk every evening"を指令することによってのみなのである。
  • この場合、論理は本質的には、上記の(E)の論理と同じである。
 Get drunk every evening.
    To get drunk every evening, you must work in a bar.
    So, work in a bar.
  • これは、正当な論理的操作によって、以下のような書き直しを引き起こす。
 To get drunk every evening, you must work in a bar.
    So, if get drunk every morning, work in a bar.
  • しかしながら、文法は命令法のあとに続く「もし」を除外するので、前件における「あなたが望む」という語の特別な使用によってそれは置き換えられているのである。
  • これは、Hareにとって便利であるだけではなく問題含みであるように思われるかもしれない
    • :これは、どんな命令文の結論も、命令文を含まない前提から導かれないという単純な–もしかしたら単純過ぎる–規則を壊すことにならないのだろうか?
    • しかし、ここではその単純な規則が適用を欠如している
      • ;というのは、結論における最大のスコープを持つ演算子は"if"であり、命令文ではないためである。
  • もちろん、Hareによるこの提案は、実践的な"ought"(および"must")の指令主義的な分析に対する最も深刻な反論で常に有り続けたものを、顕著にしてしまうだろう。
    • :その反論とは、道徳的な判断は命令文を導出することができない、というものである。
    • ;なぜなら、道徳的判断の内容は(条件文を形成する)“if"節や(信念や主張の内容を与える)"that"節のような、様々な文脈において埋め込まれて(embeded)生起するが、一方で命令文は生起することができないためである。この反論は、Peter Geachによって、Gottlob Fregeを引用する論文において強力になされた。
    • ; だから、それは「フレーゲ・ギーチ」反論として知られるようになった。
  • Hareの対応は、Hare(1970)において発見される。彼のこの問題に対する解決策は、Gilbert Ryle(1950)の「推論的チケット」(inferential tickets)を用いるものだった。
    • “If get drunk every evening, work in a bar"という準-英語(quasi-English)の役割は、毎晩酔っ払おうとする何らかの指令から(out of)、バーで働こうとする潜在的な指令を、産出することにある。
    • (a)のある発話者(utterer)を何を彼が仮定しているか(hypothesize)、それが何に寄って真となりうるかについてしつこくせまることは、それゆえ、場違いなのである。
    • 複雑な構造を持つ真理値適切な(truth-aput)な命題のように見えたものは、本当はかなり異なった役割を演じているのである
    • :それは命題ではなく、ある種の規則(rule)なのである。
  • Hare(1989)はさらに、発話行為の表現の中の2つの要素の間に区別をなすことによって、埋め込まれた命令文のパラドックスを解決しようと望んだ:
    • ある話し手が"Do X"と言い、それによって聞き手にXをさせようと言っているとき、彼は命令(command)のコミュニケーションに適した命令法の文を発すること、および、彼がそれを用いることをそのように意図しているということを示す(indicate)ことの、両方を行っている。
    • 彼は、最初のサインを"tropic“あるいは叙法のサインと呼ぶ
      • ; これはneusticあるいは署名(subscription)のサイン(Fregeの主張記号)と区別されるべきものである。
    • 英語において"If you want to do X"によって表されるように、Do X"が条件文の前件に埋め込まれる時には、neusticは消えるがtropicは残っているのである。
    • これが、"Do X"という命令文こそが後件を解放する一方で"You are about to do X"という直接法文はそうしない理由である。
  • 間接的な発話における道徳的述語の生起に関してはHareは異なる困難に直面し、彼の解答はかなり明確ではない。本質的には同じ問題であるものを解決するために、多くの試行がそれ以来なされてきた。
    • 物事を記述することや、物事が存在する方法(the way things are)についての信念の可能な内容を提示するという実質的な意味において、道徳判断が真理値-適切的であることを否定する、どんな道徳判断についての見解においても、同じ種類の問題は生ずるのである。これらの試行については、確かに洗練の度合いについては増したが、そのもっともらしさにおいては縮んでいると言ってもよいかもしれない。

*1:原文にはこの小項目の部分が無いので、この小項目とそのタイトルは勝手にchamkが付けたものです。以下同様。

Davis (2001)何が利益相反でないか

Conflict of Interest in the Professions (Practical and Professional Ethics)

Conflict of Interest in the Professions (Practical and Professional Ethics)

利益相反についての誤解 (pp.15-)

  • 不偏性、独立性、客観性は利益相反とゆるい関係しか持たない。
  • 忠実(loyal)であっても利益相反が残る場合がある。たとえば、利益相反を開示した後では彼女はもはや不忠実(disloyal)ではない。しかしそれでも、利益相反は残っており、彼女の判断は信頼できるものでもない。
  • また、利益相反を持つ事抜きで、人は不忠実であることが可能である。強欲から雇用主のもとからあなたが金を横領する場合、あなたは不忠実である。
    • あなたの強欲は確かにあなたの雇用主の利益と相反するものであるが、利益相反はあなたが金を盗んだのがなぜか、または、金を盗むことの何が誤っているのかを、説明しない。あなたの雇用主の金を横領すべきでないということを知るために、あなたは雇用主の代理において判断を行使する必要がなかった:「横領するな」は常識の一部である。ここでは諸利益の相反(a conflict of interests)、つまり、あなたの利益とあなたの雇用主の利益のひとつの対立があるが、利益相反は生じていないのである。相反する諸利益が必然的に利益相反を構成する訳ではないのである。

  • 標準的な見解では、利益相反は、利益ではないコミットメントや役割間の相反とも異なる。同じ時間に両立不可能な約束をすることは、利益相反とは異なる。
  • しかしながら、私は私の息子のサッカーの試合のレフェリーをつとめなければならないのなら、利益相反を持つだろう。私の息子がファウルをおかしたときを判定する見知らぬ人よりも、私はそれを困難だと思うだろう。(結局、よい父であることの位置部は私自身の子どもを偏愛する傾向あるのだ)。…私が知っていることは、汚れた計器の目盛りのように、「きれいな計器の目盛り」ほど頼りになるものではありえない、ということである。

  • 同じことが、私が嫌いな選手がいるチームの侵犯をする場合にも当てはまる。
    • 利益相反は、諸役割の相反を要請しない:ひとつの役割(審判)とひとつの利益(ある選手への嫌悪)は、利益相反のために十分である。(標準的な見解では)利益相反は役割やコミットメント間の衝突ではなく、人の役割やコミットメントと何らかの利益の間の衝突なのである。
  • 実は、利益相反という用語は、たったの半世紀ほどの歴史しかない(おそらくは概念も)。この用語の最初の哲学的な議論は、1970年代のはじめまで、また遡る。
  • 「利益相反」は「相反する諸利益」の単なる変数として始まったようだ。こちらの「相反する諸利益」という古い名辞は、公共の利益(たとえば管財人や受託者における不偏性)と、何らかの私的な「利得的」(beneficial)または「金銭的」(pecuniary)利益(たとえば彼の管理する財産の清算における競売で、資産を買おうとする受託者の希望)の衝突をあらわしていた。私的な利益は公共の利益「不都合な」(adverse)なものであるとしばしば言われていた。

  • BordenとPritchardの分析は不十分である。
  • 利益相反は非常に新しい用語であるが、これがなぜここまで広まったのかははっきり分かっていないし、その歴史もまだ書かれていない。都市化や専門職への依存の進展が候補として挙げられる。利益相反についてのルールは、こうした依存のリスクのシステマティックな防衛のひとつである。
  • 「一見した所の(apparent)利益相反」も基本的には不必要な誤解である。
  • しかし、その外見は問題含みではあり、管理される必要はある。

Davis(1982) 利益相反

Davis, M. (1982). Conflict of Interest. Business and Professional Ethics Journal, 1, 17–27.

イントロ

5年前、Joseph Margolisは利益相反(conflict of interest)についての論文をある観察とともにはじめた。:

利益相反の観念は道徳的・法的制限の本性を検討するほとんどの試みにおいて、特に無視されてきた。ある分析を提供しようと試みる際には、それゆえ、私たちは比較的新しい土地を掘っているのである。*1

  • しかしながら、Margolisが実際に新しい土地を掘ったとは言い難い。
    • 彼は確かにビジネス倫理や職業倫理においては新しい土地を掘ったように見えるかもしれない。
    • しかし、もし法的倫理(legal ethics)の特別な研究を検討すれば、彼は決して新しい土地を掘った訳ではないことが分かるはずだ。

      法的倫理はずっと以前に利益相反を、専門職の判断の信頼を傷つける(undermine)する傾向にある状況として理解してきた。法的倫理の分析は、私が思うにこれらの弁護士(lawyer)が直面する状況のみならず他の状況もカバーさせるために簡単に一般化することが可能である。...この分析は重要な仕方で[Margolisの分析]と異なっている。なぜなら、それは利益相反を、諸役割の間の衝突(conflict)に利益相反を関連させるのではなく、ある役割内の信頼を傷つけられた判断に利益相反を関連させているからである。;そしてこの分析は顕著により優れたものである。なぜなら、この分析は利益相反の状況と一般的には考えられていない状況に利益相反を割り当てることと、そうした割当を避けるために、数多くの多かれ少なかれアド・ホックな制限を基本的分析に帰属させることをを要請しない(Margolisは彼の分析がそれを要請すると認めている)からである。

    • 本稿では、少なくともそれを示すつもりなのである。
  • 私は最初に、「法律家の分析」と私の呼ぶものを述べる。
    • 次に、それをビジネス倫理・職業倫理一般に適合するように一般化する。
    • 最後に、ビジネス倫理と職業倫理において研究をなすもにに対する興味深い教訓をこのエクササイズから導き出そう。

I. 弁護士の分析

  • 弁護士の分析は、多くの著作があるが、アメリカ法曹協会(American Bar Association)の専門職の責任の規則(Code of Professional Responsibity)に見ることができる。この分析の規則の言明は、あまりとりわけ優れたもの(subtle)でもないが、私たちがここで必要とする全てである。
  • この規則は、利益相反を、a)比較的公式(formal)な(保持者のいる)ひとつの役割である、誰かの弁護士であるという役割と、b)その役割において適切に(properly)振る舞うのを干渉する傾向のある利益、というふたつの役割を要請するものとして解釈している。この規則は、弁護士の役割を、「法の限界のなかで、クライアントの利益のみのために、影響と忠誠に妥協を強いることから自由である、専門職の判断」*2を行使するものとして解釈している。強調は、その役割における弁護士の判断についてである。弁護士の専門職の判断は「独立した」(independent)でなければならない。弁護士は彼の法的訓練、知識、賢明さを十分に彼のクライアントに対して約束(commit)することができなければならない(法とクライアントがされてほしいと求めるものの制限のうちで)。この分析を詳細に考察しよう。
  • 残省略。

規則の実際に言っていることは、弁護士は独立した専門職の判断を提供した方がよい(should)一方、彼は少なくともクライアントが彼に置いた信頼を裏切ってはならない(must)、ということである。

  • 弁護士は、潜在的であれ顕在的にであれ利益相反を持つ場合には、彼は与えられた雇用を辞退するか(こちらはMargolisの推奨である)、あるいは、クライアントに弁護士である自身が適切な判断を行使するには信頼できないと知らせるか(Marglisが考慮しなかった選択肢である)、どちらかをせねばならない。

開示と同意は衝突を終わらせることはできない(なぜなら開示と同意が判断をより信用できるもの(reliable)にはできないためである)。しかし、それらは自動的な(automatic)裏切りを防ぐことはできる(なぜならそれらはクライアントに彼の信用(reliance)を状況に適合させるために調整することを可能とするためである)。

II. 弁護士の分析を一般化する

  • 弁護士の分析はここまででよいだろう。この分析を暫定的に一般化しよう。
  1. ある人が利益相反を持つのは以下の場合である。a)彼が他の人と、その相手のサービスにおいて彼の判断を行使することを要請する関係性にあり、さらにb)その関係性において適切な判断の実行をさまたげる傾向のある利益を、彼が持つ、そんな場合である。
  • ここから名辞名辞ごとに、何を含意するかを検討していこう。そうすれば、利益相反の概念の十分な形式化が最後には可能となるだろう。
  • この一般化された分析では、「役割」という後がなくなり、「関係性」(relationship)という語のみになっている。これは偶然ではない。利益相反は伝統的な役割ではなくとも生じうるからだ。たとえば、あなたがショーに参加する牛を私に預ける場合に、実は私もそのショーに牛を出品するとしたらどうか。私があなたにそのことを知らせずに牛を引き受けたら、私はあなたの牛の面倒を十分に見ないかもしれない。私の利益は、その他の場合と比べて、私の判断をあまり信頼可能でないようにするだろう。
  • 役割という語はこの分析には表れないが、判断の行使する関係性に着目すれば、柔軟に用いることができる。「役割」ではなく、「判断」こそが重要な名辞なのである。
  • 何が判断なのだろうか? 私たちの現在の目的のためには、判断は以下のものとして考えられることができる。それは、単調な作業としてではなく、決定を正しくなす能力として考えられる。銀行の頭取が横領をするかどうかは判断ではないし、警官がスピード違反の切符を切るかどうかも判断ではない。議員がある法律に投票するかどうかを決定する時などには判断が必要である。こうした人には、そうした問いを決定する義務を負う状況にあり、利益相反の影響を受ける(subject)のである。
  • 何が判断であるかはある程度曖昧な問題である。
  • 判断の適切さとは何だろうか。
    • 役割に応じて、何が適切かが決まっている職業もある(弁護士等)。しかしながら、多くの役割においてはそれは曖昧である。
    • それでも、ある役割は定義される限り、それは弁護士と同じくらい確かにある期待(expectation)を正当化するだろう。
    • 私たちの現在の役割としては、判断において適切なものは、ちょうど、通常その役割の人に期待されているものであり、特別な合意や、現行の週間、ルール等によって正当化されているような期待である、とすればよいだろう。
  • 「判断」が重要であるため、「利益」という名辞にはそれほど関わる必要はない。「利益」は、判断をあまり信頼できないようにする、忠誠や、関心、感情のようなすべてのものを幅広く含むように解釈されうる。
    • それゆえ、道徳的な良心でさえ、以下のようなあまり通常ではないケースでは、利益である場合がある。たとえば、悪である振る舞い方を教えるように期待されるマキャベリが良心に打たれた場合があったとしたら、彼のアドバイスは信頼できなくなるので、彼はアドバイスを差し控えねばならないかもしれない。
  • さて、こうした観察をもとに一般化された分析を提示してみよう。

II. ある人物P1が役割Rにおいて利益相反を持つのは以下のような場合、その場合のみである。
a. P1がRに従事している(occupy):
b. Rがある問いQに関する(有能な)判断の行使を要請する。
c. Rに従事するある人は、Qに関する相手に対するそのサービスにおいて行使されるその職業の判断を、相手が信頼する(rely)ことを正当化する。
d. P1がRに従事するため、人物P2はQに関するRにおけるP1の判断を信頼することが正当化されている。
e. P1は(実際に、潜伏的に(latently)、または潜在的に)、P1のQに関するRにおけるP1の(有能な)判断を、P2に利益を与える可能性をより小さいものに変えてしまうような、そんな影響、忠誠、誘惑や、その他の利益の影響を受けやい状態にある。その程度は、P1が従事するRがP2に期待することを正当化する程度以下にしてしまう、そんな程度である。

  • この定式化IIから、以下の3つの帰結が引き出されうる。
  • 定式化IIのもとでは、利益相反は十全な開示とP2の同意の後にでさえ続くかもしれない。それが続くかどうかは、役割がどのように定義されるかに左右される。P2のP1に対する実際の期待ではなく、P2がP1の職業のためにP1に期待するのが正当化されているものが、衝突が存在しているかどうかを決定するものである。P1は開示したり同意を得ることによって、Rが期待するべく正当化されているものを変えることはできない。
  • 定式化IIは、利益相反が回避可能(avoidable)であることを明示的には要請していない。これがそうしないは、衝突の中には回避可能であるようには思われないものもあるからである。利益相反は私たちがそれを知る前から、私たちに生じている場合がある。上院議員の息子が彼女の事務所に就職しようとする場合には、彼女はどんな行為をすることなしに自動的に利益相反の状況にいたっている。
  • 定式化IIは、利益相反が逃避可能(escapable)であることを明示的には要請していない。そのため、Margolisの主張したように、利益相反を終わらせるためにある判断を受ける地位から退くという選択肢を残している。

  • しかしながら、この分析のもとでは、単なる「衝突する諸利益」(conflicting interests)というMargolisの主要な例が、逃避不可能な利益相反であるように思われるかもしれない。しかしながら、衝突する諸利益では、ルーティーン的ではない判断の要素がないため、これは利益相反とは異なる。アンティゴネの悲劇のような、義務の衝突は回避不能であるが、利益相反とは異なるのである。

III. 結論

  • Margolisの論文は重要であるが多くの欠陥を持つものであった。こうした欠陥は、現在勃興中のビジネス倫理・職業倫理の領域における理論的な弱点を示唆するものであり、ひとつの教訓となるだろう。利益相反では法的倫理という隣接領域から学んだが、このように他の領域から学べることも多いはずである。

*1:原注1. Joseph Margolis, "Conflict of Interest and Conlicting Interests", in Ethical Theory and Business, ed. by Tom L. Beauchamp and NOrman B. Bowie (Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall, Inc., 1979), p.361.

*2:原注3. American Bar Association, Code of Professional Responsibility(Chicago: National Center for Professional Responsibility, 1980), EC 5-1.

Norman & McDonald (2010)利益相反のこれから

The Oxford Handbook of Business Ethics (Oxford Handbooks)

The Oxford Handbook of Business Ethics (Oxford Handbooks)

Norman, W., & Mcdonald, C. (2012). Conflict of Interest. G. G. Brenkert & T. L. Beauchamp (eds), The Oxford Handbook of Business Ethics (pp. 441–470). Oxford University Press.

第15章 利益相反 (pp.441-470)
前半のつづき。

認知的なバイアスと、組織設計のための中間レベルの理論 (pp.453-)

  • 利益相反の状況における個人の心理的バイアスの傾向を知ることは、利益相反に対処するための組織的設計を考える上でも、また少なくとも、マイクロレベルの利益相反の分析でも重要である。
  • 哲学者たちとは違い、心理学者たちや実験心理学者たちは、クライアントの利益に仕える動機や判断に対して、どのように他の利益が干渉しうるかを理解しようと試みてきた。
    • こうした心理学の知見は、組織が個人に対して利益相反を教育する場合だけでもなく、干渉を行うような利益を個人から隔絶するような、組織の設計を考える上でも、重要である。
  • 心理学の知見では、Daniel Kahneman、Paul Slovic、そしてAmos Tverskyの研究が重要な試金石となる。
    • 彼らの研究は、合理的なの認知からの逸脱である認知バイアス、そして、利益によって影響を受ける判断のバイアスである動機バイアスを探求したものである。
  • 心理学の認知バイアスには「フレーミング効果」、「整合性バイアス」、「内集団バイアス」等が含まれる。
  • こうした心理学的研究の内容の集合的な知見は、このようなものだ。人間の判断は、しばしば非生産的で、気づかれず、ある個人が補正するのが難しい方法で、絶えずそしてしつこくバイアスをかけられている、ということである*1
    • これらの知見を踏まえると、組織的レベルで利益相反を考えるのが合理的であろう。
  • 近年の研究が示しているように、医者(physician)、アナリスト、監査人(audit)等、様々な専門家や準専門家が利益相反の状況によって判断にバイアスを受けうる。

経験的な情報を持つ規範的理論に向けて (pp.456-)

  • 心理学の研究は、どのような要因がバイアスを与えるのかを明らかにするため、中間レベルの利益相反を考える上で重要である。以下のような対策が提案されている。
    • 回避(人の判断を危うくさせうるどんな利益の獲得も回避する)
    • 調整(alignment)(意思決定者の利益が、奉仕される人の利益とあうように調整するような、インセンティブの調整)
    • 客観性(その人の義務の客観的な行使への心理的なコミットメント。実のところこれは「古典的な」特に基づいた提案である)
    • 開示(影響を受けうる人々へ、利益相反を開示する)
    • 独立した判断(客観的な第三者の判断を得るよう求める)
    • 競争(コンフリクトが生産性を脅かす利益相反を削除するために、会社に自分たちにインセンティブを与えるような、競争的プレッシャーを課す)
    • ルールとポリシー(潜在的な利益相反が実際の利益相反に進化することを妨げる、本質的に組織的な(institutional)解決策を含む)
    • 構造変化(会計事務所において、監査とコンサルティングの機能を分けるような、利益相反をより起こりにくするための施行をなす方法。)
  • このリストが賢明である(make sense)のひとつの理由は、「客観性」や「開示」というような一見すると単純な戦略のようなものでさえ、利益相反の状況にある個人が適切に履行できるかどうか(implement)が、経験的に明らかになるからである。
    • たとえば、開示は役に立たないかもしれない、ということが、経験的な研究によって示唆されている。(Cain et al.等)
      • 彼らの研究では、(1)利益相反の状況を開示したとしても、専門家のクライアントはその情報を有効につかえない、(2)開示を行う方が専門家はバイアスのかかった判断をしやすい、等のことが示唆されているのである。
  • ただし、こうした経験的な証拠はどれほど中間レベルの対処には役立とうとも、これらは限界と欠点を持つ。
    • たとえば、(1)結果のみにフォーカスしすぎること、(2)分析性や定義的な話を曖昧にしたまま実験を行うこと、が指摘できる研究がある。
  • しかしながら、こうした制限にもかかわらず、これらの経験的な研究は、組織レベルの利益相反の規範を設計する上で非常に役立ちうる。

利益相反のマクロレベルのポリティカル理論にむけて (pp. 459-)

  • 私たちは利益相反のこれまでの議論と、今後の展開を見てきた。
  • マクロレベルの問いは、一般的に想定されている専門家集団(または独立した組織の倫理規定)が、自らのそうした利益相反の規範を特権化されているのかが問題となるだろう。
    • 専門職の自律の度合いを下げ利益相反の規制を強めるのか、あるいはこうした規制がコストに見合わないと考え、ある程度のリスクを取るのか、近年はこうした議論も行われつつある。
    • しかし、これらの問いはマクロレベルの利益相反の問いとして、答えられ、正当化されねばならないのである。
  • 利益相反のマクロレベルの問いの重要性について考えるもう一つの方法は、歴史的な視野の問いに取り組むことである。
    • この[利益相反という]―職業家と公的サービス、ほとんどの企業行為規律(codes of conduct)において、現在絶対的に中心的である―道徳的カテゴリーが、第二次世界大戦以前には、ただ漠然かつ不完全にしか理解されていなかったという事態がどうじて生じているのか。私たちは既に部分的な解答を与えてきた。:私たちが現在「利益相反の状況」と呼ぶものにおける、道徳的に適切な観点のアドバイスは、「コンフリクトを抱えている」個人が誘惑に抵抗し、客観性を保ち、彼や彼女の義務を実行するよう教示することであると、より伝統的な思想の学派には考える傾向があった(inclined)。私たちが現在認識することは、この反応がナイーブであるということである。:コンフリクトを抱えている個人は、自身が利益相反の影響に対し「正しく」あるのにベストをつくそうとする場合でさえ、彼らの判断を干渉されるのである[...]。しかし、利益相反の概念の「発見」や、過去の半世紀にわたる私たちの倫理的思考におけるその占有を、この反応が説明するものではないと、私たちは信じている。そのような説明は、いまだ、仕事を行うときのミクロ倫理的な視点にフォーカスしすぎている。*2

    • ボートライトとデイビスの両者は、さらなる補足的説明として、より中間レベルの倫理的パースペクティブを採用しはじめた説明を提供している。[利益相反という]用語と概念の両者がそれらの見かけほどなぜ目新しいのかという問いに対して、私たちは未だ「権威のある答えを持たない」とデイビスは認める。彼は続ける。「現在利用可能な最善の説明は、
      主人と従者の永続的な個人的関係が、自由市場と大都市、大産業によって特徴づけられるより簡潔な遭遇へと、置き換わったことのように見える。私たちは現在、他者の判断にはるかに依存しており、彼らの決定に次ぐ決定の判断を評価する能力が、はるかに減少している。そして実際、一般的に私たちがこれらの個人について知っていることは、たったの50年前に人々が持っていたであろう知識にくらべて、はるかに少ない。」*3

    • しかしながら、これが利益相反についての全ての説明ではない。デイビスの説明は、利益相反の概念の戦後における急速な広まりを説明しないし、彼の言及するこのトレンド自体も産業革命の時代からあったものである。
      • ボートライトもまた、利益相反という概念の出現と流行は、「推測を呼ぶ」ものであり、この推測への彼の反応は、デイヴィスによって先ほど示された部分をより詳細にするものであるとして、見ることができると考えている。 * >「社会は信託者や行為者に非常に依存的になった。特に、職業家であると同時に、市場の力が彼らの活動においてより大きな役割を担わせる人々に対して、その依存は顕著である。資金的なインセンティブに基礎を持つ市場経済において、職業家―特に、医療、法、会計ーがだんだんと開業されはじめた時に、この発展の便益と損害の両方が認識された。便益を享受するためには、潜在的な損害の源泉を特定する概念を開発し、損害のある帰結を減少させる手段を考案することが必要だったのである。」*4

    • このボートライトの考察は、組織の設計や規制というより大きな問題を強調する点でより妥当だろう。
      • ボートライトの説明では、利益相反の概念は、クライアントに対して専門家が持つ道徳的な責務をよりよく理解するための方法ではない(Davisの説明はそう読めた)。そうではなくむしろ、合法化と規制の方法として、発達した市場経済において財やサービスを供給するための、より効果的で公正な方法として、ボートライトは利益相反の概念を考えている。
    • しかし、ボートライトによる思索的な考察も不十分である。それは暗黙裡に、専門的なサービスの買い手の個人的な権利を過度に強調しているからである。
      • 「利益相反の何が悪いのか?」に対する彼の答えを検討してみよう。彼は言う。道徳的な誤りは、「単純である:利益相反の状況にある個人は--受託者であれ、エージェントであれ、専門家であれ--ある義務を遂行するのに失敗したのである。その義務とは、その人が契約(engagement)と、たいていは報酬をそのために受けると認めた、そんな義務である*5」と。これは大抵は正しいのだが、利益相反の状況にありながら、自分の義務を遂行することも可能であるので、正確な答えであるとは言えない。
  • しかし、それ[専門職に想定された義務の不履行]が全ての話である訳ではないし、私たちが今日そのように重要な強調を利益相反に置く全ての理由ではない。
    • 彼ら[職業家集団など]が[利益相反を]重視するのは、個人が彼らの構成員によって損害を与えられることを怖れるからだけではなく、彼らが、クライアントや公共全体からの信頼(trust)の評価に、決定的に頼っているためである。
    • 手短に言うと、専門家や組織が利益相反に関心を持つのは、彼らがクライアントを重視するためだけではない。さらに、彼らがが彼ら自身に関心を持ち、自分たちが効果的にそして生産的に業務を行い続ける能力に関心を持つために、職業家と組織は利益相反を重視するのだ。職業家と政府、非政府組織、そして多くの種類の企業のまさに正統性(legitimacy)は、信頼に依存している。信頼無しでは、彼らの地位は取り去られるかもしれない。もしくは、信頼無しでは、彼らが効果的に彼らの使命を実行する能力が妥協させられるかもしれない。
    • そして、利益相反は―たとえ誤認されたり、見かけ上の利益相反であっても―信頼を腐食するのである。*6

  • 主要な社会的・政治的組織が利益相反を、それを減らし管理する自分たちの組織の利益の観点から、どのように見るようになったか、を私たちは理解しはじめてきた。それによってはじめて、私たちその概念が生じたときに、なぜそれが生じるのかの理由をより十分に理解することができる。
    • デイヴィスとボートライトの基本的な説明は、戦後世界における公共の(public)組織の利益相反に対する、同時期的な外見と、関心の傑出に対して、沈黙を守ったままなのである。*7

    • 利益相反について語るためには、社会の民主化が以下の方法で民主化し、社会の様々な分野に対する公共の監視が進展した点に触れなければならない。
      • 戦後に特徴的な利益相反の状況の増加は、政府のサイズと役割の爆発的増加、そして巨大な国家的組織によって影響を人々の生活が影響を受ける機会の爆発的増加と、一致している。
      • これはまた、特権の濫用や汚職の微かな残り家でさえ、社会に公表するマスメディア(今ではインターネットを含む)の急成長とも軌を一にしている。
      • さらに、歴史上初めて、すべての分野の組織が著しく規制されるようになった。
      • だから、民間も、NGOも、公務員も、専門家も、みな、公共によってなされる監視と規制に注意深くなったのである。
  • 利益相反が職業的または専門的サービスの個人的なクライアントにどれほど害をもたらしたとしても、利益相反が社会的、政治的、経済的な大規模な組織に課す脅威を理解することなしでは、私たちが、利益相反という規範的なカテゴリーの近年の出現と流行を十分に評価することはできない。 * いまこそ、マクロレベルの政治的な理論からも、利益相反の規範に取り組む時なのである。

結論 (pp. 464-)

私たちはミクロレベルの利益相反の問いから、マクロレベルの問いまでの移り変わりを確認してきた。

*1:p.455

*2:Ibid., p.461-462.

*3:Ibid., p.462.

*4:Ibid., p.462.

*5:訳が上手くいかない。"..., one for which he or she has accepted an engagement and, usually, compensation".

*6:Ibid., p.463

*7:Ibid., p.463

Hare(1996) 命令法、指令、そして、それらの論理

Objective Prescriptions: And Other Essays

Objective Prescriptions: And Other Essays

Hare, R. M.. (1996). “Impératifs, prescriptions et leur logique.” In Dictionnaire de Philosophie Morale, xx-xx. Edited by M. Canto-Sperber. Paris: Presses Universitaires de France, 1996. Reprinted as “Imperatives, Prescriptions, and Their Logic” in Objective Prescription.

4.1

The most general term for speech acts of this kind[prescription] is telling someone to do something, in contrast to telling him(or her) that something is the case.

  • 祈りという、話し手が全く権威の無い場合でも、命令法は何かをさせるためのものである(神にそれをさせるので)。
  • 命令法を割り当てられた人をchargeeと呼ぼう。
  • 逆に、命令法や指令以外に何も、人に何かをさせることができない、ということは成り立たない。
  • スティーブンソン第三章のように、pragmaticという語について混乱してはならない。
    • オースティン1962の第八章を参照のこと。
    • そのほか、Practical Inferencesのラストや、H1951も。
    • ウィトゲンシュタインのチェスの例。意味を伝えることと、何らかの目的を達成することとを混乱してはならない。
  • 命令法の'verbal shove theory'= 命令文を相手に何かをさせることと同一視すること。
    • Hareは、「それじゃあ騒がしくしていなさい」(後で君たちを罰してあげるから)と言うサディスティックな学校教師の例を挙げる。ようするに、何かを述べることと、語用論的に何かをさせることとの区別を導入している。

4.2

  • 文の成立要素には第三章でみたように、the tropic, phrastic, neustic, and clisticが必要。
  • このように区別して考えると、命令文にはthe phrasticというstatementと共通する部分があることに気づけるだろう。
    • This can be brought out, alternatively, by rephrasing an imperative as the command or request to make a statement true.
    • e.g. ドアをしめろ!→Make it the case that the door is shut
    • もし"Make it the case that the door is shut and not shut"は、"The door is both shut and not shut."と言うのと同じく矛盾。
  • しかし、命令文において、道徳哲学の目的の限りでは、必ずしもinferenceは不可欠ではない。
    • 必要なのは、inconsistencyの性質のみである。
    • ここの区別は、ロスのパラドックスを避けるために導入しているのだろう。
  • 命令法の論理は、しかしながら、phrasticの論理に制限されない。サールの仕事(Searl and Vandervesken 1985 illocutionary logicの定式化(formulation))が示しているように(サールはまだある種のverbal shove theoryに結婚しているようだが)(1985: 22, 52)、命令法を含む多くの様々な種類の発話行為の中で行われる「illocutionary logic」というものがありうる。さらに、彼らの示す所によれば、そうした論理がtropicsとneusticsと私たちの呼んでいるものへのreferenceを含まねばならない。彼が'illocutionary denegation'(1985: 4)と呼ぶものは、ある種のneusticのnegationであり、論理的に重要である。;そしてtropicsも論理への影響を持つ。例えば、'you will go'から私たちは'you will not stay here'を推論することができる。

4.3

  • 命令法の論理を全て考察することはできないが、命令法と直接法が根底的に異なっているという根拠を否定する議論を最初に示しておこう。
  • Hareの否定する第一の議論:選言の振る舞いが直接法と命令法では異なる。いわゆる、ロスのパラドックスの問題。
    • Griceの会話の含みの理論で対応。
    • 正しい道徳的思考のためには指令が発行される状況の事実を考慮し、論理的に結合して充足されえない指令を、私たちが避けねばならない、ということを充足の論理は要請する。
  • Hareの否定する第二の議論:排中律が命令法には適用できない点が、直接法文とは大きく異なっている。
    • 直接法の論理と命令法の論理が異なっていると示すために一般に用いられるもうひとつの論証は、、排中律(the law of excluded middle)が後者[直接法の論理]には妥当だが、それが前者[命令法の論理]には妥当でない、というものである。ドアが閉まっているか閉まっていないかのどちらかであることは、論理的に事実(the case)でなければならない;しかし、私は「ドアを閉めなさい」(Shut the door)か「ドアを閉めるな」(Do not shut the door)のどちらかを命ずる(command)する必要はない;私は、論理に異常をきたすことなしに、ドアが閉じられることになっているかどうか(whether the door is to be shut)について何も言わなくてもよい(may)し、私はまた、論理に以上をきたすことなしに、「あなたのお気の好きなように、あなたはドアを閉めてもしめなくてもよい」(You may shut the door or not, just as you please)といってもよい。

    • この論証はふたつの可能な混乱に基づいている。第一[の混乱]は、「あなたはドアを閉じることになっている」(You are to shut the door)の二つの意味(sense)の間におけるものである:(1)「ドアを閉めることになっている」が、話し手によって発せられる「ドアを閉めろ」という命令法と等値な場合の意味;(2)「ドアを閉めることになっている」が、そんな命令法が他の誰か(例:上官の司令官など)によって発せられたということの報告(report)である場合の意味[。これらふたつの意味の混乱である]。これらの意味の二番目においては、もしこの上官の司令官が、ドアを閉めるという命令も発せず、ドアを閉めないという命令も発しないのなら、その場合、あなたがドアを閉めることになっているということが事実であるということもないし、ドアを閉めないことになっているということが事実であるということもない。しかし、二つのうちの最初の意味では、「ドアを閉めろ」と「ドアを閉めるな」との間で、話し手が命じることのできるものは何もないのである。

    • もちろん、彼は、ドアを閉めることを許可(permit)したり、また、ドアを閉めないことを許可したりすることができる;彼は、これらの許可を「あなたはドアを閉めてもよい」や「あなたはドアを閉めることをしないでもよい」(You may omit to shut the door)と言うことによって、これらの許可を表明することができるし、彼は自己矛盾なしに、これらの両方を言うことができる。しかし、直接法でも同じく、彼は「ドアは閉まっているかもしれない」(The door may be shut)や「ドアは閉まっていないかもしれない」(The door may be not shut)のどちらも言うことができる: こう言うことの可能性は、排中律によって除外(ruled out)されない。

    • これを理解するためには、通常の様相論理妥当と量化子理論において妥当である'square of opposition'が、上記の二つの意味の第二[の誰かが行った「報告」という意味]における「あなたは…することになっている」においては妥当であるが、第一[の話し手が発する命令の意味]では妥当でない、ということに気づくのが役立つ。(2)の意味では、「あなたはドアを閉めることになっている」は、「あなたはドアを閉めることを差し控える(refrain)することになっている」の(contrary)である;どちらの命令も発せられないということは可能である。しかし、(1)の意味においては、「あなたはドアを閉めることになっている」(=「ドアを閉めなさい」)は、「あなたはドアを閉めることを差し控えることになっている」の矛盾である。ドアが閉められることになっているかそうでないかについての、正確な教示を与えなければならない話し手は、どちらかを言わねばならない。彼が「あなたのお気の好きなように、あなたはドアを閉めてもしめなくてもよい」と言うことができるということは、それらが矛盾であるということを示すものではない。それがこう示すものではないということは以下の場合と同様である。つまり、「ドアは閉まっているかもしれないし閉まっていないかもしれない;私はただ知らないだけだ」と彼が言うことのできる事実が、「ドアが閉まっている」と「ドアは閉まっていない」という言明が矛盾でない、ということを示さないのと、同様である。

    • こうした誤解した論証につながりうるもう一つの可能な混乱がある。これは、命令法の文と、義務的な様相を表現する規範的文との間にある混乱である。「べき」と命令文が同じものを意味すると考えるのは、非常に一般的である。

    • 義務的様相には、通常の真理(alethic)や因果や認識や論理的様相と同じように、square of oppositionが確かにある。「あなたは…すべき」(You ought to...)は、たしかに、「あなたは…すべきでない」(You ought not to...)(= …することはあなたの義務ではない)の逆ではあるが、矛盾ではない。義務様相を命令法との間で混乱することは、たとえば「ドアを閉めろ」が「ドアを閉めるな」と矛盾ではないが、逆である、とするような、単純な命令法のa square of oppositionがあると述べる誤解の、ひとつの源である。

4.4

  • 命令法と義務様相の間の関係は、通常の直接法の文、および通常のちょうどリストにされた種類の通常の様相との間の関係との、ある種のアナロジーを提示する(MT 1.6; Fisher 1962を参照)。ほとんどの義務論理の標準的な体系では、次のような種類の公理や定理がある('L'が「必然的に」、'M'が「可能に」をあらわす、ポーランドの表記法を用いている)。

  • CLpp (もし必然的にpなら、その場合、pである)(If necessarily p then p)
  • および
  • CpMp (もしpであれば、pである可能性がある)(If p then possibly p)
  • もし義務論理と命令法の論理において、同じようにポーランドの表記法を用いるとどうだろうか。'O'が「〜は事実とされるべきだ」(It ought to be made the case that)、'P'が「〜は許容される」(It is permissible that)(ふつうは'NON'として定義される:'It is not obligatory that ... not')として、さらに、'F'が命令法の「〜を事実にしなさい」(Let it be made tha case that)叙法のサイン*1として、表記するようにしてしてみよう。すると、似たような公理などが、義務論理においてもあるだろう:

  • COpFp(もしpであるべきなら、その場合、pを事実にしなさい)(If it ought to be made the case that p, then let it be made the case that p)
  • and
  • CFpPp (もしpということがされることになっているなら(ここは本来は命令法である)、その場合、pは許容される)
  • 以下のことが気づかれただろう。最後の文において、私たちは日常言語で等しいものを与える際に、'if'-節の形式を変更せねばならなかったのである。これは、私たちが以下で再びとりくむ命令法の論理の困難さを表している。しかしながら、当面のあいだは、最後のふたつの公理は、形式において最初のふたつに似ており、最初のふたつにおける文の文字である、'p'は、最後のふたつでは命令文である、'Fp'によって置き換えられるという違いがあると気に留めておこう。通常の様相論理における全ての直接法の文の文字を命令法で置き換えることは、義務論理を日常の様相論理の異種同位体(isomorphic)にする結果となり、『自由と理性』(5.5)の「聖なる」または「天使のような」道徳語--彼らがすべきでないことをするのがよいとは決して指令せず、彼らがすべきであることをよいといつも指令する存在による言語--と類似したものになるだろう。著書で説明されたように、人間の言語はそのような厳格な論理にしたがわない。しかし、この厳格な言語には、論理学者にとっての魅力がある;私たちが規範的(例. 道徳的)判断と命令法との間の関係を説明するようになったら、これをまた参照しよう。

4.5

  • 見てきたように、命令文は「もし」-節のなかに現れることができないし、またその他の多くの従属節の中にも現れることができない。それらは、しかしながら、「そして」や「しかし」や「あるいは」とともに形成された複合的な連言文の半分や、選言文において現れることができる--そうした複合的な命令文において、これらの連言が通常の直接法の文にそれらが現れる際と同じ意味を持っているかどうかはあまり明確ではないが。それらは確かに多くの場合現れる;しかし、多くの通常の直接法の論理のように、これらの連言には他にも特異な(anomalous)使用がある;たとえば「彼はパラシュートをつけ、そして、飛び降りた」(He put on his parachute and jumped out)は「彼は飛び降り、そして、パラシュートをつけた」(He jumped out and put on his parachute)という交換を許容しないし、同様に、「パラシュートをつけ、そして、飛び降りろ」という命令文も「飛び降りて、そして、パラシュートをつけろ」という変換を許容しない。両方の叙法において、私たちはそうした特異な使用を耐えなければならない。

  • しかしながら、従属節における命令法の禁止(ban)は、より深刻な困難を提示する。私たちがのちに見るように、指令主義と発話行為論による道徳の言語の解釈に共通する批判は、道徳的な文は従属節において現れる一方、「私はこれによって命ずる」(I hereby commend)のような遂行的表現は不可能である、というものである。二つの困難は類比的である。しかしながら、当面の間は、命令文は、ともかく、従属節に現れる場所が全くないと許可することにしよう。叙法のサインや署名のサイン*2は区別されなければならないが、命令法の場合においてそれらを区別することがより難しい、というのが、叙法の間のこの差の理由であるようだ。だから、叙法のサインは埋め込まれることができない(それらは文の全体を支配する)ので、同様に命令法の叙法のサインも埋め込まれることが難しいのである。

  • メインの動詞が命令法である場合における「もし」-節は、一般的であるが、直接法の叙法のサインを持つようだ:それゆえ、「もしあなたが行くなら、レインコートを持っていきなさい」においては、もし人がこのアドバイスにもとづいて行動することになっているのなら、取り除かれなければならないその「もし」節は、「私は行くんだ」(I shall go)(直接法)である*3。そこで、私たちは、次のようなモーダス・ポネンスの推論を形成することが可能である。「もし私が行くのなら、私のレインコートを取りなさい; 私は行くんだ;だから私のレインコートを取りなさい」(If I go, take my raincoat; I shall go; so take my raincoat)、と。

  • これらの考慮が関連を持つ悩ましい問いは、直接法と命令法が同じ推論で混合されることができるのか、それはどのような仕方であるか、である。ちょうど今与えられた推論におけるように、それはできるように思われる。より悩ましい問題は、「もしあなたが行くのなら、あなたはレインコートを取りなさい;行きなさい;だからあなたのレインコートを取りなさい」(If you go, take your raincoat; Go; So take your raincoat)、という混合されていない(unmixed)命令法を用いる(一見したところは妥当な)推論である。この推論が実際には妥当でない(invalid)ということは、Alf Ross(1944)によって指摘された。

  • 「すべての猫は哺乳類である」(All cats are mammals)から「もしあなたが猫を殺すなら、哺乳類を殺しないさい」(If you kill a cat, kill a mammal)のようなトリヴィアルなもの(たとえばPoincare 1913: 225; Popper 1948: 154; LM 2.5をみよ)のほかに、直接法の前提のみから命令法の結論へといたる推論はありえないと一般的には主張されてきた。この直接法-命令法推論の禁止は、多くの道徳哲学者によって、非-道徳的な言明から道徳的な言明までの推論についての禁止をふくむように拡大されてきた(Hume(1739: III. I. i)に一般的に帰属させられる、有名な「『である』から『べき』は導かれない」のように)。しかし、これは未だ論争的な状況である。

4.6

  • 命令法の分析から、規範的言明における指令的意味全般の分析へ。
    • supervenienceテーゼの再定式化。
    • ルールは推奨される状況と行為の性質をほのめかす(allude)のである。「べき」によって表現された規範的言明は、その場合、これらの性質にsupervenientしていると言われている。

4.7

  • 規範的言明には文化によってなかば固定的な記述的意味があり、そうした記述的意味に応じて規範的言明に真理値を与えることも可能である。
    • しかし、規範的言明の真理値のみが道徳性のすべてを説明する訳ではない。人々をある一定の仕方で振る舞わせる道徳性にはやはり指令的意味も説明に必要なのである。)
    • 記述的意味とそれに対応する真理値のふたつのみから、道徳性を説明する試みとして、直観主義自然主義のふたつが古典的には挙げられる。これらは不可避的にある種の相対主義に陥ってしまう。
    • また、現代の洗練された版の自然主義は、道徳的性質と非道徳的性質の形而上学的で必然的なつながりを喚起している。こちらもMoore的な開かれた問い論法の攻撃に耐えられまい。
  • 規範的原則(principle)(カントの言うところの格率(Maxim))の指令性を合理的に考え、その原則に応じて道徳用語の真理値を決定することによってはじめて、道徳性は客観的で安定的なものになるのである。

*1:Hareの用語では、tropic

*2:原文では、"the tropic or sign of mood and the neustic or sign of subscription"である。本記事では、基本的に、neusticやtropic等のヘアの用語法は用いず、適宜言い換えている。

*3:ここの訳は微妙。"the 'if'-clause that has to be detached if one is to act on this advice is 'I shall go'(inidicative)."