Edgington (2014) 直接法条件文

Edgington, D. (2014). Indicative Conditionals. In The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2014). Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/win2014/entries/conditionals/

はしがき

直接法(the indicative mood)の文という、言明をなすために適切な文を取り上げてみよう:「私たちは家に10時までいるだろう」(We’ll be home by ten)、「トムは晩御飯を作った」(Tom cooked the dinner)。それに条件節(a conditional clause)をつけると、あなたは条件的言明(a conditional statement)をなす言明を得ることになる:「もし電車が時間通りなら、私たちは家に10時までいるだろう」(We’ll be home by ten if the train is on time)、「マリーがディナーを作らなかったなら、トムがそれを作った」(If Mary didn’t cook the dinner, Tom cooked it)。それゆえ、「もしAなら、Cだ」(If A, C)や「Cである、もしAなら」(C if A)という条件文は2つの取り込まれた文または文のような節を持つことになる。Aの部分は前件(antecedent)と呼ばれ、Cの部分は後件(consequent)と呼ばれる。もしあなたがAとCを理解し、条件文の構成を(私たちみなが幼い頃にするのと同じように)修得したならば、あなたは「もしAなら、Cだ」を理解している。辞書を参照すると、「〜という条件で; である場合に限り; と想定すると」(on condition that; provided that; supposing that)が出てくる。これらは十全な同義語である。しかし私たちは同義語以上のものを求めている。条件文の理論は、以下を解明する条件文の構成の説明を与えることをねらっている。条件的判断が受容可能なのはいつか、条件文に関わるどの推論がよい推論であるのか、そして、なぜ言語的構成がこれほど重要なのか[こうしたことの解明を条件文の理論はねらっている]。素晴らしく巧妙な研究の徹底にも関わらず、これはかなり議論の余地のある主題であり続けている。

1. 導入

直接法条件文のみを扱い、反事実的条件文を扱わない

  • まず、私たちの議論する領域を限定することからはじめよう。
    • 事例として最初に用いた例文は、伝統的に「直接法条件文(indicative conditionals)」と呼ばれてきた。
    • 他にも、「叙想的(subjunctive)」条件文、あるいは、「反事実的(counterfactual)」条件文もある。
      • 例文。「マリーがディナーをつくらなかったなら、トムがそれをしただろう」(“Tom would have cooked the dinner if Mary had not done so”)
      • 例文。「もし電車が時間通りだったなら、私たちは10時まで家にいただろう」(“We would have been home by ten if the train had been on time”)
      • 反事実的条件文は別の項の主題となるだろうし、それらに取り組む理論はここでは議論されない。
    • 直接法条件文と反事実的条件文との間に何らかの違いがあるということは、以下のような例文のペアによって示される。
      • 例文。「オズワルドがケネディを殺さなかったのなら、別の誰かが殺した」(“If Oswald didn’t kill Kennedy, someone else did”)
      • 例文。「もしオズワルドがケネディを殺していなかったのなら、別の誰かが殺していただろう」“If Oswald hadn’t killed Kennedy, someone else would have”。
      • 前者の例文を受容するが、後者の例文を拒絶することは、あなたにとって可能である(Adams (1970))。*1
      • 一方で、前者と後者との間の違いがそれほど大きくないということは、次のような事例によって示されることができる。
        • 例文。「そこに入るな」"Don’t go in there"と私が言い、「もしあなたが入るならあなたは怪我をするだろう」"If you go in you will get hurt"と述べる。あなたは懐疑的なようだが外にとどまっていると、屋根が崩落して大きな騒音がする。「わかっただろ」"You see"、と私が言い、「もしあなたが入っていたならあなたは怪我をしていただろう。私はそう言ったんだ」"If you had gone in you would have got hurt. I told you so.“と述べる。
  • 条件文の最適な分類法は、論争を呼ぶ問題である。
    • 一部の論者によれば、未来志向の「直接法(indicatives)」(主節に「だろう(will)」を持つもの)は、「接続法」(主節に「だっただろう(would)」を持つもの)に属しており、他の"直接法"には属していない。
      • (Gibbard (1981, pp. 222-6), Dudman (1984, 1988), Bennett (1988)を参照せよ。Bennett (1995)は心変わりをしている。Jackson (1990)は伝統的見解を擁護している。)
    • 「だろうs」の典型的なものから「だっただろうs」への容易な遷移は、確かに、[彼ら論者が]説明するデータである。
    • しかし、(私の見解では)過去形、現在形、あるいは未来形についての平易な(straightforward)言明に、条件節がつけられたものは–つまり直接法条件文の伝統的なクラスは–確かに単一の意味論的種を構成する。
    • 特定の下位区分に限った場合、この項で議論される論者たちの説明は、とりたてて良かったり悪かったりするわけではない。

条件的命令等を扱わず、条件的言明のみを扱う

条件的言明だけでなく、条件的命令や条件的約束、条件的提案、条件的質問等もある。条件的信念だけでなく、条件的希望、条件的恐れ等もある。私たちの焦点は条件的言明と、それが表現する条件的信念である。しかし、どの論者がもっとも自然に自身の理論を他の種類の条件文に拡張可能かを私たちは考察するだろう。

今後の展開

  • 3種類の理論が議論される。
    • §2では、条件文の真理条件についての、真理機能的(truth-functional)説明と非真理機能的(non-truth-functional)な説明を私たちは比較する。
    • §3では想定的理論(the suppositional theory)と呼ばれる理論を私たちは検討する。この理論では、条件的判断は本質的に想定と関わっている。
      • この理論が展開するの後には、真理条件のある言明として条件文を構成することと、この理論が両立しないことが見えてくるだろう。
    • §4では、真理条件説の提唱者からの応答を見る。
    • §5では、より幅広い種類の、条件的発話行為および命題的態度を、考察する。

「ならば」の記号の使い分け

記号 どの条件文か 提唱者の呼び方
A⊃B 真理機能的条件文 フック(Hook)
A→B 非真理機能的条件文 ヤジルシ(Arrow)
A⇒B 想定的理論の条件文 サップ(Supp)

否定は~であらわす。

2. 直接法条件文に対する真理条件

2.1 2種類の真理条件

本節では真理条件的意味論が正しいと仮定する

  • 真理条件から文の意味を捉えるアプローチは、複合文の意味を詳細に特定する点に強みがある。複合文の部分の真理条件から、その複合文の全体の真理条件を特定できるためである。
    • この節を通して、条件文に対するこのアプローチが正しいと仮定しよう。
    • 私たちの問いはこうなるだろう:「もしAなら、Bである」の真理条件は、「AかつB」"A and B"「AまたはB」"A or B"「Aではない」"It is not the case that A"と同様に、単純で、外延的で、真理機能的種類なのだろうか。

    • つまり、AおよびBの真理値は、「もしAなら、Bである」の真理値を決定するのだろうか。それとも、「AであるのはBだからだ」"A because B"および「B以前にAである」"A before B"、「Aである可能性がある」"It is possible that A"と同様に、非真理機能的なのだろうか。つまり、AとBの真理値は、いくつかの場合では、「もしAなら、Bである」の真理値を未決なままにするのだろうか。

真理機能的解釈の位置付け

  • 条件文の真理機能的理論は、Fregeの新しい論理 (1879)にとって不可欠であった。
    • Russell(彼が「実質含意(material implication)」と呼んだ)、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、そして論理実証主義者ら、によってそれは熱心に引き継がれている。いまでは論理学の全ての教科書に載っている。
    • 概して、これが明白に正しい、と学生に思われる訳ではない。これは論理学の最初の驚きだろう。
    • しかし、多くの状況でこれは立派な働きをするものである。そして、多くの人々がこれを擁護している。
  • これは著しく単純な理論である:Aが真でBが偽である時に、「もしAならBである」は偽である。全ての他の場合では、「もしAならBである」は正しい、というものだ。
    • それゆえ、これは~(A&B)および~A or Bと同値である。A⊃Bは約定的にこうした真理条件を持っている。
  • もし「もし」が真理機能的であれば、この解釈は、真理値表の組み合わせの中で最適である。
    • 第一に、Aが真でありかつBが偽である時に、「もしAならBである」が偽であることに、議論の余地はない。推論の基本的な規則はモーダス・ポネンスである: 「もしAならBである」およびAから、私たちはBを推論することができる。Aが真で、Bが偽、さらに「もしAならBである」が偽なら、この推論は妥当ではないだろう。
    • 第二に、「もしAならBである」がAとBがそれぞれ(真、真)、(偽、真)、(偽、偽)である場合にも、時には真であることにも議論の余地はない。「もしそれが正方形なら、それには4つの角がある」という、未知の幾何学図形について言われた発言は、その図形が正方形か長方形か三角形かに関係なく、真である。真理機能性を想定すると–つまり条件文の真理値がその部分の真理値によって決定されると想定すると–条件文の要素が真理値のこれらの組み合わせを持つときにはいつも、その条件文が真であるということが導かれるのである。

非真理機能的解釈の位置付け

  • 非真理機能的説明も、Aが真でBが偽である時に、「もしAならBである」が偽であるということを認める; この理論はさらに、他の3つの真理値の組み合わせに対しても、条件文が時には真であるということを認める。; しかし、これらの3つの組み合わせにおいて常に、条件文が真であるということ、をこの理論はを否定する。
    • 彼らの中には、AとBが両方とも真である場合には、「もしAならBである」が真でなければならないという点で、真理機能論者と同意するものもいる。一方で、AとBとの間のさらなる関係性を要求し、その点に同意しないものもいる(Read (1995)を参照せよ)。
    • しかし、この論争に私たちは関わる必要がない。非真理機能的解釈についての以下の議論に関して、重要な点は、Aが偽である時に、「もしAならBである」が真あるいは偽でありうる、という点のみである。
      • 例文。(*)「もしきみがその電線に触れるなら、きみは電気ショックを受けるだろう」(“If you touch that wire, you will get an electric shock”)と私が言う。きみはそれに触らない。私の発言は真か偽のどちらだっただろうか。(9)
      • 非真理機能論者によると、それは電線に電気が触れていたかとか、きみが電気から絶縁されていたかとか、そうしたことによって、この条件文の真理条件が左右される。
    • Robert Stalnaker (1968)の説明はこのタイプである: あなたが電線に触る可能世界で、かつ、これ以外はミニマルに実際の状況と異なる可能世界を考えてみよう。(*)の真偽は、その可能世界においてあなたが電気ショックを受けるかどうかに応じて決まる。

2種類の真理条件を真理値表に落とし込む

  • AとBを2つの独立した別個の命題としよう。以下の4列は4つの両立不可能な論理的可能性を表している。
    • T/Fは、両方の真理値がその割り当てに置いて可能であることを意味している。

真理機能的解釈

(i) (ii) (iii)
A B A⊃B ~A⊃B A⊃~B
1. T T T T F
2. T F F T T
3. F T T T T
4. F F T F T

非真理機能的解釈

(iv) (v) (vi)
A B A→B ~A→B A→~B
1. T T T T/F F
2. T F F T/F T
3. F T T/F T T/F
4. F F T/F F T/F

2.2 真理機能を支持する論証

条件文の真理機能を利用できれば

  • 主要な論証が指摘するのは、以下の事実である。その事実とは、真理機能的真理条件の充足についてのミニマルな知識が、もしAならBであるということについての知識に対して十分(adequate)であるという事実である。 * 例。x, yという2つの球が袋に入っている。あなたは少なくとも1つが赤色だということだけを知っている。これで、もしxが赤でないならyが赤色である、ということをあなたが知るのに十分だ。両方が赤でないということだけ知っていても、同様に、xが赤ならyが赤でないとあなたには分かる。

  • あなたがAとBの真理値の組み合わせについて何も知らない状態からはじまると考えてみよう。次に、AかBかのどちらかが真であるとあなたは知る。ただし、これ以上に強いどんな信念もあなたは持たない。特に、Aが真か偽かのどちらかであるかについて、あなたは堅固な信念を全く持たない。この状態では、あなたは第4行を除外(rule out)しているのだ。その他の可能性は開かれままである。この場合では、~AならBである、ということをあなたが推論することは、直観的に見て正当である。左側のAとBの可能性を見よう。あなたはAとB両方が偽である可能性を除外した。だからもしAが偽なら、唯一残る可能性は、Bが真であることだけだ。
  • 真理機能論者(フックと呼ぼう)はこれを正しく説明する。(ii)列を見よう。行4のみを除去すると、あなたは~A⊃Bが偽となる唯一の可能性を除去したことになる。ここでは、~A⊃Bが真であると結論することができるほどあなたは十分知っていることになる。

条件文の真理機能を利用できなければ

  • 非真理機能論者(ヤジルシと呼ぼう)はこれを誤って説明してしまう。列(v)を見てみよう。同様に第4行を削除しても、除外されていない他の場合において、~A→Bが偽となる何らかの可能性が残ってしまっている。なぜなら、~A→Bが偽となる行4に対し、両立不可能である行1行2の可能性たちを削除できていないからである。
  • 同様の論点が、否定された連言に対しても提示できる。あなたは確かに~(A&B)を分かるだろうが、それ以上強いものは何もわからないとしよう。あなたは第1行のみを除外する。もしAならBである、をあなたは正当に推論することができる。
    • フックはこれを正しく説明していた。列(iii)において、私たちが行1を削除すれば、A⊃~Bが真となる可能性だけが残る。
    • ヤジルシはこれを誤って説明してしまう。列(vi)において、行1を削除しても、A→~Bが偽となる可能性は残ったままである。同様の論証はAならばBに関して、行2を削除する場合にも考えられる。

フックと自然演繹法

  • フックに有利な2つ目の論証は、自然演繹の様式にあらわれる。
    • 条件付き証明(Conditional Proof, CP)の規則は以下のように述べられる。もしXおよびYの前提からZが導かれるなら、その場合、前提Xから「もしYなら、Zである」"If Y, Z"が導かれる。いま、~(A&B)、A、およびBという3つの前提は、矛盾を含意する。だから、帰謬法により、~(A&B)、および、Aから、私たちは~Bを結論することができる。だから、CPを用いると、~(A&B)は「もしAなら、Bである」を含意する。二重否定除去を用いれば、もしAなら、Bであるを導くことも可能である。
  • 条件付き証明は健全であるように思われる。しかし、真理機能的な解釈以上に強い「もし」の解釈に対して、CPが妥当であるものは無い–少なくとも私たちが&~を古典的な方法で扱い、次の推論(I)の妥当性を受容する限りは。
    • (I)~(A&B); A; ゆえに B
    • CPを(I)に適用すると、~(A&B)の前提から、もしAならばBである、が導かれる。すなわち、A⊃Bは、もしAならばBであるを含意するのである。

2.3 真理機能にアンチの論証

実質含意のパラドックスとは

  • よく知られた「実質含意のパラドックス(paradoxes of material implication)」とは、フックの理論にしたがうと、Aが偽であることが、「もしAならばB」の真に対して十分になってしまうことである。列(i)の最後の2行を見ると、Aが偽であるすべての可能な状況において、A⊃Bが真である。「彼女が電線に触れた」が偽であることが、「もし彼女が電線に触れたなら彼女はショックを受けた」を含意するということが、正しくありうるだろうか。
    • フックに可能な応答: Aという前提を私たちが確かに知っていると想定し、結論Bが確かに導かれるかどうかが、条件文の直観的な妥当性のテストとなる。~Aが確かであるのなら、そもそも私たちはAという条件節を必要としないはずだ。直接の直観的なテストは、それゆえ、~Aから「もしAならBである」が導かれる可どうかについて沈黙したままなのである。条件文についてのスムーズでシンプルな分析がこうした理論的帰結をもたらすのなら、私たちはその帰結にうまく合わせてやっていくしかない。
    • フックに可能な応答2: フックがこう応じるとしても、さらに反直観的な反例の提示はまだ可能である。しかし、そもそもこうした反例を敢えて重要視しないことによって応じることもフックは可能かもしれない。には簡潔さと明晰さの点で自然言語の「もし」よりもむしろ優れているのである。ひょっとしたら、正確性と明晰性という私たちの利益にもとずくと、真剣な推論では、なかなか捉えにくい「もし」を、そのすっきりした近親者のに置き換えるべきかもしれない。
  • これは疑いようもなく、Fregeの態度だった。Fregeの第一の関心は、数学的推論に適切なように理想化された言語において定式化される、論理の体系を構築することにあった。自然言語の「もしAなら、Bである」はA⊃Bとは異なり、意図された働きを十分担わない。そうであるなら、自然言語の方に瑕疵がある、ということになる。
    • 数学をするという目的に限ると、についてのFregeの判断は恐らく正しかった。の主要な欠陥は数学において、それほど大きな問題とならないからだ。

実質含意のパラドックスの許容しがたさ

  • しかし、経験的な事柄についての条件的判断を考察すると、の奇妙さを許容することはより困難になる。
    • その違いはこうだ: 経験的な世界について考える際、それほど確実ではない度合いの確信を持ちながら、命題を受容したり拒絶したりすることを、私たちはしばしば行うのである。

    • 確かに、前件が偽であると私たちの確信する場合は無視できよう。しかし、前件が偽である可能性がある(likely)と私たちが考えている条件文の使用を無視することはできない。私たちはこれらをしばしば使用し、いくつかを受容し、そして他のものを拒絶しているのである。
      • 例文。あなたは去りゆくパートナーにこう言う。「もう私が連絡を取る必要は無いだろうと私は思ってるんだけど、もしそうするなら、私は電話番号が必要だな」"I think I won’t need to get in touch, but if I do, I shall need a phone number"。ここで、「もしそうするのなら私はテレパシーでなんとかするよ」"If I do I’ll manage by telepathy"とは続けない。
      • 例文。「ジョンはマリーに話しかけたんだと私は思う; もし彼がそうなかったのなら彼は彼女に手紙を書いたんだ」(“I think John spoke to Mary; if he didn’t he wrote to her”)とは言うが、「もしそうじゃないなら、彼は彼女を撃ったんだ」とは言わない。
    • フックの理論では、起こる可能性のあまりない(unlikely)前件を持つすべての条件文が真である、という不幸な帰結を持っている。~Aということが起こる可能性があると考えることは、A⊃Bの真理に対する十分条件が存在するということが起こる可能性がある、と考えることになってしまうのだ。
      • 例文。共和党が次の選挙で勝利しないだろう(~R)と考え、さらに、もし彼らが勝てば彼らが所得税を倍にする(もしRならD)、という考えを、拒絶する人。フックによれば、この人物はひどく不整合な見解を保持していることになる。なぜなら、~Rの可能性が高いと考える人は、{~R, D}の少なくとも1つの命題が真であるという可能性が高いと考えねばならないためである。しかし、それはまさにR⊃Dと考えることである(逆に、R⊃Dの拒絶を分析することからはじめても、これはR&~Dの受容であるのでおかしなことになる)。
  • フックの理論は、有能で知的な人々の思考パターンにほとんど適さないだけではない。私たちがとうまくやっていくことができるとはとても主張されえない。それどころか、フックの理論では、私たちは知的に無力となるだろう。私たちは、前件が偽である可能性の高い条件文に関して、信用できる条件文と信用できない条件文とを区別する力を持たない、ということになるだろう。
  • ヤジルシはこうした問題を持たない。ヤジルシの理論は、Aが偽な場合にA→Bが偽でもありうるように許可することによって、この問題を回避するように設計されている。
  • 実質含意のもう一つのパラドックスは、フックの理論に従うと、真である後件を持つ全ての条件文が、真となってしまうというものである: BからA⊃Bが導かれるのだ。
    • こちらはそれほど明白に受容不可能な訳ではないが、Bに対して確信を持つ場合ではなく、Bに対してほぼ確信を持つ場合を考察すれば、この問題は顕著になる。
      • 例文。スーが今講義していると私は考える。もしスーがひどく怪我をしているのなら、私は彼女が今講義しているとは思わない。だから私はこの条件文を拒絶する。しかし、フックの説明では、この条件文の真理のための十分条件が存在していると、私が考えている、ということになる。

2.4 語用論的観点からGriceが行った、真理機能の擁護

会話上の適切さへのGriceの注目

  • よく知られているように、H. P. Griceは、1967年のWilliam James講義(Grice (1989)を参照せよ。またThomson (1990)を参照せよ)にて、真理機能的説明を擁護した。会話において自分が従うべく期待されている基準を考慮すると、真理を語るが聞き手をミスリードする方法は数多くある。1つの方法は、あなたの立場であなたが言うべき適切なことよりも、弱く他の何らかのことを言うことである。
    • 例文。選言を考えてみよう。ジョンがどこにいるのかが私に尋ねられる。私は「彼はパブか図書館かのどちらかにいる」(“He is either in the pub or in the library”)と答える。しかし実は、彼がパブいることが確かだと私は思っており、図書館には決していないと私は知っている。私の聞き手は、先ほどの発言が、私の立場において私が提供すべき最も正確な情報だと思い、「もし彼がパブにいなければ図書館にいるんだな」“If he’s not in the pub he’s in the library”という真理(ひとまず真理だと想定しよう)を結論する。
    • グライスによれば、この条件文は彼がパブにいれば確かに真であるが、その事実に基いてミスリーディングに主張されている。
    • 例文。David Lewis (1976, p. 143)によるもう1つの例。私は言う。「これらを食べて生きのびることを、あなたはしないだろう」“You won’t eat those and live”。健康に良くおいしいマッシュルームについて言っている。あなたが私の発言に従いそれを食べ残すことを私は知りながら、私はこう述べている。私は嘘を付いていないが、やはりあなたをミスリードさせている。
  • 次に、Griceは人がある命題を信じることが正当化されている(justified in believing a propositon)状況へと関心を向けさせる。その命題とは、しかしながら、標準的な情況では、その人が言えば筋の通らない(unreasonable)であるだろうものである。彼の教訓は有益で重要だ。私が思うに、彼は選言と否定された連言について正しい。ジョンがパブにいると信じながら、「彼はパブか図書館かのどちらかにいる」と私が整合的に信じないことはできない; もし私がこの状況において何らかの認識的態度をこの命題に対して持つのなら、その信念を主張することがどれほど不適切であっても、それはひとつの信念である。「これらを食べて生きのびることを、あなたはしないだろう」も同様だ。

Griceの条件文擁護は実質含意のパラドクスの回避に成功していない

  • しかし、真理機能的な条件文の持つ困難さが、会話上の不適切な発言の観点から説明されつくされる、というのは、妥当ではない。真理機能的な条件文の持つ困難さは、信念のレベルで生じるのだ。ジョンがパブにいると考えながら、私は不合理性(irrationality)をおかさずに、「もし彼がパブにいなければ彼は図書館にいるんだな」と信じないことができる。あなたがあるマッシュルームを食べないと信じながら、「もしあなたがマッシュルームを食べれば、あなたは死ぬ」"If you eat them you will die”を不合理性をおかさずに拒絶することができる。人々が受け入れる標準(norm)、についての事実として、これらの主張はテストされることができる。
  • 十分に適切なテストは、協力的な人物を考えてみることだ。彼女は、あなたが彼女に問う命題についての彼女の意見にのみ、あなたが関心を持っていることを理解している。彼女がどんな発言をするのが筋が通っているだろうかに、あなたの興味がないことを理解している。そして、彼女はどの条件分を彼女が受容するかに言及する。私たちは、「共和党が勝利するだろう」、および、「もし彼らが勝てば彼らは所得税を倍にする」という2つの命題に同意しないような人物に、非論理的だと言う烙印を本当に押すのだろうか[いや押さない]。つまり、結局は会話の適切さに注目したからと言って、実質含意のパラドクスにはじまる条件文の持つ困難は解消されないのである。
  • ただ、Grice的現象は現実のものである。確かに、誰の条件文の説明においても、その条件文が正当に信じられるが、もし述べられればミスリーディングとなるものはある。
    • 例文。試合が開催されるかどうかを誰かが私に訊く。私は、「もし雨が降れば、試合は中止されるだろう」と答える。しかし、私は全ての選手がインフルエンザにかかっていると知っており、雨の有無にかかわらず試合が中止されるだろうと信じている。私は自分の信じることを言っているが、やはり聞き手をミスリードしている。
    • ただ、このことはやはりフックの正しさを例証するものではない。私は試合がキャンセルされるだろうとは信じているが、 すべての選手が急速に回復すれば試合が中止される、ということを、私は信じていない。

2.5 条件文の複合物: フックとヤジルシにとっての問題

フックにとっての問題: 真のはずなのに真と言えない埋め込み文脈

  • ~(A⊃B)A&~Bと同値である。直観的に見て、未知の幾何学図形について、以下のことをあなたは言える。「以下のことは事実ではない。もしそれが五角形なら、それには6つの角がある」“It’s not the case that if it’s a pentagon, it has six sides”、と。しかし、フックの観点からすれば、あなたは誤りであるかもしれない。なぜなら、それは五角形ではないのかもしれないので、その場合には、それが五角形であればそれが6つの角を持つ、ということが真であるからだ。
  • Gibbard (1981, pp. 235-6)からの別の問題の例: 「もしこのメガネを落としていたならそれが壊れたなら、それはもろい」“If it broke if it was dropped, it was fragile”とあなたが言う。あなたはその前に、その眼鏡を廊下の上で保持していた。この条件文は理にかなっているように思われる。しかし、フックの観点からすると、もしその眼鏡が落とされておらず、そしてもろくなかったなら、その条件文は真の前件(条件節に埋め込まれた条件文)と、偽の後件を持つことになる。そして、それゆえ、偽であったということになる。
  • Griceの戦略は、(フックの観点では)真であると私たちの信じる理由を私たちの持つある条件文を、なぜ私たちが主張しないか、を説明するものであった。上記の2つの場合では、その問題は逆になっている: 私たちが確信を持ち主張し受容する条件文の複合物(compound)がある。しかし、フックの観点では、私たちはそれが真であると信じる理由を持っていないのである。

ヤジルシにとっての問題: Import-Export原理

  • ヤジルシにとって、上記の例は問題ではない。しかし、埋め込まれた条件文の他の場合には、逆方向に相当するものがある。
    • 2つの例文。両方とも直観的に見ると同値である;
      • (i) If (A&B), C.
      • (ii) If A, then if B, C.
      • McGee (1985)にしたがい、私は(i)と(ii)が同値であるという原理をImport-Export 原理(Principle), あるいは、"Import-Export"と省略して呼ぼう。
      • 例文。「もしマリーが来るなら、その場合、もしジョンが早く去る必要がないなら、ブリッジ[ゲーム]を私たちはしよう」“If Mary comes then if John doesn’t have to leave early we will play Bridge”;
      • 「もしマリーが来る、かつ、ジョンが早く去る必要がないなら、ブリッジ[ゲーム]を私たちはしよう」“If Mary comes and John doesn’t have to leave early we will play Bridge”
  • フックにおいては、Import-Exportは妥当である(練習問題: 真理値表をつくって証明をしなさい)。Gibbard (1981, pp. 234–5) は、⊃よりも強い真理条件を持つ持つ条件文において、Import-Exportが妥当ではない、ということを証明した。
  • Import-Exportがいくつかの「もし」の解釈において妥当であると想定しよう。証明の鍵は、以下の式(1)である。
    • (1) If (A⊃B) then (if A, B).
  • Import-Exportでは、(1)は(2)と同値だ。
    • (2) If *2 & A) then B.
  • (2)の前件はその後件を含意する。だから(2)は論理的真理である。だからImport-Exportによって、(1)は論理的真理となる。「もし」のどんな解釈においても、「もしAならば、Bである」は(A ⊃ B)を含意する。だから (1)は(3)を含意する。
    • (3) (A ⊃ B) ⊃ (if A, B).
  • だから(3)は論理的真理である。つまり、(A ⊃ B)というその前件が真で、(if A, B)というその後件が偽である可能な状況は全くない。つまり、(A ⊃ B)は、「もしAなら、Bである」を含意するのである。

2節のまとめと今後の展開

ここまで見てきた中では、どちらの種類の真理条件も、完全に満足の行くものだと判明していない。私たちはまだ、Jacksonによるフック擁護、2.2項で挙げられた、非真理機能的真理条件についての問題へのStalnakerによる応答を考察しなければならない。これらは4節まで延期されている。なぜなら、それらは3節で展開する考察に左右されるためである。

*1:【コメント】この辺りの感覚は英語非ネイティブにとってかなり分かりづらいように思います。言わんとしていることは、恐らくこういうことではないでしょうか。 前者の例文は、「ケネディ暗殺事件の犯人が実はオズワルドでなかったとしたら、他の真犯人がケネディを暗殺したということ」を表わしているように読めます(なぜなら、実際にケネディ暗殺事件は起きているので、犯人がいなければおかしなことになるから)。一方、後者の例文は、「もしオズワルドがケネディの暗殺を企てなかったとしても、CIA等他の組織がどのみちケネディを暗殺していただろう」という予想を表しているようにも読めます。

*2:A⊃B