Schroeder(2010)表出主義の致命傷となった「否定問題」

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

第7章 The Frege-Geach Problem, 1988-2006

第7章前半の続き。ギバード的意味論の問題点についての後半です。Schroederが先鋭化した否定問題(the negation problem)が説明されます。

7.4 否定問題

  • 1980年代から、条件文は徐々に直接的な注意を引きつけなくなり、否定のケースにより多くの注意が払われるようになってきた。この理由はシンプルである。:モーダス・ポネンスが不整合性性質を持つ理由を説明することは、{P, P→Q, ~Q}という3つの文の全てを受容することが不整合である理由を説明することだからである。
  • この問題を解くためには、条件文の意味の表出主義的な説明だけでなく、否定された文(~Pのようなもの)の意味の表出主義的な説明が必要である。
    • そのため、ある理論が条件文の意味を満足に説明するかどうかを評価するためには、私たちは「でない」(not)の意味を知らなければならない。
  • しかしながら、一方では、「not」の意味の説明が成功しているかどうかを評価するためには、私たちは「もし…なら」という条件文の意味を知る必要はない。否定された文の最も重要な意味論的性質は、それらが否定された文と不整合であることである。
    • つまり、どんな文'P'に対しても、'P'は'~P'と不整合である、ということである。
    • 'not'に先に取り組むことは、可能な解答の幅を狭め、見込みのある解答が可能かどうかに焦点を当てやすくする。だから、'not'を先に考える方がより賢明な戦略だろう。
    • ただ、厳密な意味で、なぜ'P'と'~P'が不整合であるかを説明することは、本書第八章「真理と客観性」まで待つ必要がある。
    • 幸いなことに、私たちは第五章において、StevensonとGibbardが提供した、態度に注目した不一致の間接的な説明を見てきた。
      • 彼らが依拠する不一致とは、個人間(interpersonal)の不一致と個人内(intrapersonal)の不一致であった。
  • 本節では、表出主義者の不一致の説明が正しいと想定してみよう。特に、否認は私たちが行為に対して抱く態度で、それは次のような仕方で信念である、と考えてみよう。
  • 不整合-伝導的(inconsistency-transmitting)
    • 信念という信念がQと不一致であるのは、PとQが不整合である場合であり、Aを否認することがBを否認することと不一致であるのは、AとBが不整合な場合のみである。
  • 以上の前提から導かれるのは、金を盗むことの否認は、金を盗まないことへの否認と不一致である、ということである。
    • だから、「金を盗むことが誤りである」が前者の否認を表出し、さらに、「金を盗むことは誤りでない」が後者の否認を表出する場合、これらの文の両方を受容する人は、お互いに不一致である文を受容するという意味において、不整合である。
    • さらに、第五章二節で提出した「ということを信じる」の表出主義的説明によって*1、金を盗むことが誤りであると信じる人は、金を盗むことが誤りではないと考える人とも不一致である、ということも導かれる。
    • これらは、一見すると私たちによい説明を提供しているようだ。
  • しかしながら、これには、「否定問題」(the negation problem)という思いがけなずに大きな障害があるのである。
    • 否定問題とは、「金を盗むことは誤りである」(Stealing money is wrong)が金を盗むことに対する否認を表出するのなら、その場合、「金を盗まないことは誤りである」(Not Stealing money is wrong)がは金を盗まないことに対する否認を表出するべきだ、というものである。
    • しかし、「金を盗まないことは誤りである」は、「金を盗むことは誤りでない」(Stealing money is not wrong)とは全く異なることを意味する。
      • 前者は金を盗むことは義務であることを意味する一方、後者は容認可能であることを意味している。
    • だから、たとえ、金を盗むことの否認と金を盗まないことの否認が不一致であっても、「金を盗むことが誤りである」と「金を盗むことは誤りでない」の不整合を表出主義者の分析は説明していないのである。表出主義者が説明してきたのは、ただ、「金を盗むことは誤りである」と「金を盗まないことは誤りである」ということの不整合だけである。
    • この否定問題はNicholas Unwin(1999, 2001)によって、これまであまり注目されてこなかったが、明晰に提出された。
  • 否定問題が意味するのは、私たちが「金を盗むことが誤りでない」という文によって表出される心的状態の説明を与えることに失敗した、ということだけではない。それだけではなく、私たちが不整合な内容の否認のケースとして説明する必要のある不整合があるが、そうした不整合を全て説明することができる心的状態で、私たちがその心的状態を文に帰属(assign)することのできるような心的状態は全く無い、ということである。
  • このことを証明するのは容易である。以下の4つの文を比較してみよう。
1. 盗みは誤りである。
2. 盗みは誤りでない。
3. 盗まないことは誤りである。
4. 盗まないことは誤りではない(Not Stealing is not wrong)。
  • 文1と文2はお互いに不整合であり、文3と文4もお互いに不整合である。だから、もしこれらの文の不整合が、これらの文の表出する心的状態の間の本来的な不一致の観点から説明されるべきで、さらに、否認が不整合な内容に対して合理的に衝突するという事実によって、これらの文の不整合が説明されるべきなら、その場合、文2と文4はなんらかの不一致の心的状態を表出しなければならない。
1'. [Stealing is wrong]=DIS(stealing)  
2'. [Stealing is not wrong]=DIS(x)  
3'. [Not stealing is wrong]=DIS(not stealing)  
4'. [Not stealing is not wrong]=DIS(y)  
  • 文2は、なぜ文1と文2が不一致であるかを説明するために、盗みと不整合である何ものかに対する否認を表出しなければならない。さらに、文4は、なぜ文3と文4が不整合であるかを説明するために、盗まないことに対して不整合である何かに対する否認の表出を説明しなければならない。
    • しかし、もしxが盗むことと不整合なら、xは盗みでないことを含意する。
    • 同様に、もしyが盗まないことと不整合なら、盗まないことはyを含意する。
    • しかし、ここから導かれることは、xはyではない状態を含意する、ということである。たとえば、xとyはお互いに不整合である、など。
    • しかし、文2と文4によって表出される心的状態が個人内で不一致であり、それゆえ不整合である、という予測をこの理論は提供してしまう。
    • 実際には、盗みが誤りでないと考えることと、盗まないことが誤りでないと考えることは、どちらも許容可能だという意見に基づけば、完全に整合的であるにもかかわらず、である。
  • van Roojenの論証は、もし表出主義者が多すぎる論証を妥当とする理由を説明しようとしないのなら、表出主義者は、心的状態の間のどんな古い合理的な衝突に訴えかけるのではなく、個人内の不一致と私たちの呼ぶ特別な不一致のみに訴えるよう注意しなければならない、ということを示した。
    • 個人内の不整合とは、不整合な内容を持つ日常的な記述的信念に置いて成立するもので、不整合な内容を持つ志向性においてもまた成立するものであった。
    • しかし、この証明が示すものは、もし「盗みは誤りである」のようなシンプルな道徳的文がそれらの主語(subject)に対するネガティブな態度を表出し、否認の心的状態間の不一致が、信念間の不一致とちょうど同じように機能する(ということをGibbardとStevensonの表出主義は楽観視していた)のなら、その場合、「盗みはあやまりでない」が「盗みは誤りである」の表出するのと同じ種類の態度を表出する、ということを判明させる方法は全くないのである。
  • 私たちはギバード的意味論を、複雑な文によって表出される状態に対するどんなレシピにも対応する十全性の条件を形成するものとして考えることができる。表出主義者のレシピを用いながら、なぜ[P∨Q][~P][P][Q]の不一致クラスに関連する不一致クラスを持つのかを説明することは、必要で十分なことである。しかし、この節の論証が示したものは、全ての表出主義者がこれまで共有してきた想定の限られたセットを考慮すると、いかなる構成的な説明も、誤った不一致クラスを産出してしまう、ということである。これは、表出主義にとっては悪いニュースである。

7.5 態度の階層

  • Nicolas Unwin(1999, 2001)は、この問題の来る場所を示すために、シンプルな例を用いた。彼は、私たちを次の4つの文章を比較するように導く。
w 盗むことが誤りであるとジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is wrong.)
n1 盗むことが誤りであるとジョンは考えていない。(Jon doesn't think that stealing is wrong.)
n2 盗みが誤りでないとジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is not wrong)
n3 盗まないことは誤りであるとジョンは考えている。(Jon thinks that not stealing is wrong)
  • 'not'に対する表出主義的意味論を提出する課題は、n2の内容を与える課題である。なぜなら、表出主義者は、あなたが'P'であると考える状態が何かを述べることにっって、'P'の意味を与えるという見解だからである。しかし、十分な構造を文wが欠くために、私たちは「盗みは誤りである」の意味の表出主義者の説明を読み取ることができない、という点に問題がある。n1-n3が示すように、'not'が文wに挿入される場所には3つがある。しかし、n1*-n3*の示すように、'not'がwに挿入されうる箇所は、3つある。しかし、文wに対する表出主義者の図式的な説明において、'not'の挿入されうる場所は3つ無いのである。
w* ジョンは盗みを否認する。(Jon disapproves of stealing)
n1* ジョンは盗みを否認しない。(Jon doesn't disapprove of stealing)
n2* ??
n3* ジョンは盗まないことを否認する。(Jon disapproves of stealing)
  • Unwinの例が示すように、原子文によって表出される態度の表出主義者の説明には十分な構造がない。*2しかし、これはまた、否定だけではなく、全ての複雑な文の形成に対して、当てはまる問題である。以下に例を示そう。
&1 盗みが誤りとジョンは考えており、かつ、殺人が誤りであるとジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is wrong and Jon thinks that murdering is wrong.)
&2 盗みが誤りで、かつ、殺人が誤りである、とジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is wrong and murdering is wrong.)
&3 盗みと殺人が誤りであるとジョンは考えている。(Jon thinks that stealing and murdering is wrong.)
∨1 盗みが誤りであるとジョンは考えている、もしくは、殺人が誤りであるとジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is wrong or Jon thinks that murdering is wrong.)
∨2 盗みが誤りである、もしくは、殺人が誤りである、ということをジョンは考えている。(Jon thinks that stealing is wrong or murdering is wrong.)
∨3 盗みか殺人が誤りである、とジョンは考えている。Jon thinks that stealing or murdering is wrong.
  • それぞれの場合において、全ての3つの文は区別される必要がある。それぞれの場合において、複雑な分の形成のための表出主義的なレシピを提供することは、2番目の文に対する内容を与えることの問題である。さらに、それぞれの場合に対して、範囲外に出る2番目の文の説明について、文wの構造が入る場所は1つ足りない。こうした例を無限に広げることは容易である。
  • この問題の構造のために、現代的な表出主義の理論は、'P'や'Q'によって表出される態度の観点から、'P'や'P&Q'、'P→Q'によって表出される心的状態を分析しようとしてこなかった。この節の論証が確立するのは、これらの理論がなしてきた想定を考慮すると、表出主義者はその分析ができないのである。
    • だから、その代わりに彼らのなしていることは、複雑な文によって表出される新しい態度の存在を仮定することである。
      • だから、たとえば、許容(tolerance)と呼ばれる新しい態度を発明し文n2はジョンが盗みを許容していると述べてもよいかもしれない。
      • 同様に、私たちは二重の否認(double-disapproval)と呼ばれる新しい態度を発明してもよいかもしれない。二重の否認とは、あるひとつの行為をその対象に対して行うのではなく、ふたつの行為をその対象に行うものである。そして、文&2は、ジョンが盗みと殺人という対象に対し、二重の否認の状態にあることを述べているものだと言うのである。
  • しかしながら、原子文の否定問題と同じ論証が、連言文にもあてはまる。だから、表出主義者は、文'~(A&B)'によって表出される態度に関しても、新しい態度を発明する必要に迫られてしまう。これだけでは済まない。文'A&~B'や文'~A&~B'によってそれぞれ表出される新しい態度も、仮定する必要が出てきてしまうのである。さらに、一般的に、異なる種類の態度を表出するどんなふたつの文に対しても、表出主義者は新しい種類の態度を想定する必要があるのである。
  • 以上の議論を進めると、道徳的文によって表出されるべき異なる種類の態度の無限の階層(infinite hierarchy)を私たちは結果的に仮定する、ということになる。
    • 言うなれば、道徳的・非道徳的というふたつの種類の信念を仮定する結果となるだけではなく、無銀に多数の異なる種類の信念がある、と仮定する結果になるのである。
    • 今度は、それは、第五章で見てきたような心の哲学の問題をはるかに難しくする。
    • このように、表出主義者は無限の態度の階層を仮定することを説明しなければならなくなる。
    • それだけでなく、望んだり疑ったりする他のあらゆる命題的態度に関しても、彼らは無限の態度の階層を説明しなければならなくなる。
    • 無限の態度の階層が心についてのちょっとありそうにないほど精密な仮説であることは、たやすく理解できるだろう。

7.6 推論的-コミットメント理論

  • 外見は多様だが、フレーゲ・ギーチ問題に対する約1988年以降発展してきた表出主義者のアプローチが説明する方法はほぼ同じだった。それらの表出主義的アプローチを、単一のグループとして、推論的-コミットメント理論(inferential-commitment theory)と呼んでもよいだろう。
  • たとえば、「許容」の態度を発明し、許容と否認はお互いに不一致である、とする説明を見てきた。こうした理論は、その理論が機能するために必要な性質を許容の態度に割り当てているが、本当にそうした理論があるということが確証されるまでは、その理論は機能しない。さらに、最後の7.5節で見たように、同様の表出主義者の理論は無限の階層の態度を必要とする。Terry Horgan and Mark Timmons(2006)の表出主義的アプローチは、明らかに無限の階層の態度を認めている。
  • 7.2と7.3からのギバード的意味論にも同様の問題があてはまりうる。こうした理論は、どんな文によっても表出される心的状態を選び出すために用いるのと同じ種類の記述によって、「盗みは誤りではない」という文によって表出される心的状態を選び出しているのかもしれない。
    • それは、それらの不一致クラスの観点から文によって表出される心的状態を記述するための、統一的な表記法を持っていた。そうした統一的な表記法には、全ての文が同じ種類の心的状態を表出しているかのように、あるレベルでは見せるが、それは事実と異なっている。
    • もし私たちがこうした不一致クラスが何かを説明しようとすれば、無限に多くの異なる種類の態度を想定せねばならなくなることを、7.4と7.5からのものと同じ論証は示すだろう。
  • しかし、第三の種類のBlackburn(1988)によって示されたような理論であれば、バンザイする(hooraying)ことと、許容することの違いを説明できるかのように思われるかもしれない。
    • その理論は、Aにバンザイすることとは、~Aを許容することと常に不一致であることを特定し、[P][Q]という任意の二つの心的状態に対しても、[P]と[Q]との間で、木につながれている(tied to a tree)という状態がある、と述べる。さらに、[P]と[Q]との間で「木につながれている」どんな人でも、[~P]という状態に至れば、[Q]という状態にあるように合理的にコミットされている、とこの理論は述べる。
    • しかし、この理論はさらなる明晰化が必要である。
      • もし[P]と[Q]の間にあることが、それ自体では[P]と[Q]に対する態度であるのなら、結局、高階の態度説とこのアプローチは何ら変わらないことになる。
      • もし「木につながれている」が合理的で推論的な心的状態の性質のみを意味するのなら、この理論は推論的-コミットメント理論の一種であり、7.4と7.5と同じ無限の階層の態度問題に終始するだけである。
  • だから、見かけは非常に多様であるにも関わらず、表出主義者らのこれらのアプローチは非常に類似した理論なのである。彼らは、van Roojen問題を避ける代わりに、彼らの理論に当てはまるような性質を記述し、想定しているだけである。そして、無限の種類の信念と言う問題が、彼らには同様に当てはまるのである。
  • 最後に、これらの理論が構成的でないため、フレーゲ・ギーチ問題の当初の目的であった複雑な文の意味論的性質ができていないという当然の意義を確認しておこう。同一人物がPと~Pと考える不一致である「個人内の不一致」と私たちの読んできた態度の衝突について、以下の二つの説明を見てほしい。

  • 認知主義者の説明

    • 日常の記述的な信念が、志向性と同じく、ある人がそれを不整合な内容に対してもつ場合、自分自身に不一致となるような種類の心的状態である、という点を述べるところから私たちは始める。次に、'P'と'~P'が不整合であることを述べる--つまり、それらの両方は同時に真ではありえない、と。さらに、そのことは、真理値表による'~'の意味によって説明される。最後に、Pと考えることは、Pという内容の信念を持つことで、~Pを考えることは、~Pという内容の信念を持つことである、と述べる。これらの3つの想定から、Pと考えることは~Pと考えることと不一致であることが導かれる。
  • 推論的-コミットメント理論家の説明
    • 私たちは[P]という心的状態を考慮すると、それに不一致であるもうひとつの心的状態があると想定することから始める。[~P]に対する私たちのレシピは、[~P]をそうした心的状態とすることによって得られる。想定により、それは[P]と不一致である。
  • 推論的-コミットメント理論家の説明が、全く説明でないことは明らかである。[~P]のような心的状態が本当にあるのだろうか。なぜそれは[P]と不一致になるのだろうか。推論的-コミットメント的理論はこうした問いに対して言えることを、不運なことにほとんど持っていない。
  • だから、真理条件的意味論と同様の合成性を説明するレシピを提供するというHare(1970)の約束に以降において、進歩は極めて限られたものなのである。
  • フレーゲ・ギーチ問題は非認知主義にとって深刻な障害であり続けているし、私たちがこれまで学んできたことのほとんどは、あまり期待を持たせるものではない。

章のまとめ

本章において、ギバード的意味論にはじまり、Allan Gibbardによって開発されてきた様々な表出主義的理論である、フレーゲギーチ問題に対する推論的-コミットメントアプローチを私たちは見てきた。私たちは、公正性を形式的十全性のためにどのようにトレードオフしたかを確認し、そして、なぜ、彼らはなぜそうするように強いられたのかを彼らの想定から証明した。推論的-コミットメント理論が多くの形態を取ることができ、いつも同じ外見をしていないことも私たちは確認した。

*1:「表出主義の「信じる」の定義: どんな文P、人Sに対しても、「SはPを信じている」は日常的な記述的信念んを表出しており、その信念の対象は、SがPという文によって表出される心的状態にあるという命題である。」p. 88.

*2:この文の意味が取りにくい。As Unwin’s examples illustrate, there is not enough structure in expres- sivists’ account of the attitudes expressed by the atomic sentences for any answer to fall out of expressivism as to what mental state is expressed by complex sentences. pp.137-138.