Gibbard(1990)新しい非認知主義を創ろう

Wise Choices, Apt Feelings: A Theory of Normative Judgment

Wise Choices, Apt Feelings: A Theory of Normative Judgment

第一章 パズル

イントロダクション

この本で私は、ソクラテスの探求を問う。どのように生きるか熟考すること、どのように生きるか推論することは、実際には、どんな種類の人生が生きるのに合理的かを尋ねることである。私はこの問いに対してどんな特別な答えも提示しない。私の最初の関心は、そうした問題が何であるかである。ある選択肢を合理的であると呼び、別の選択肢を非合理的であると呼ぶことは、何を意味するのだろうか。それがこの本のパズルであり、そのパズルについて研究することから、私たち自身や私たちの問いについて学ぶ価値のあるものを学べるようになることが、私の望みである。

  • 道徳性と合理性(rationality)には関連があるのではないだろうか。
    • 理由(reason)への道徳の結びつきは、ひょっとしたら全ての道徳理論を支えているのかもしれない。
    • HumeからKant、Sidgwickの時代から、P. FootやD. Gauthier、T. Nagelまでの道徳理論を振り返ると、理由についての考えが人々を鋭く対立する主張へと導いていることがわかる。
  • 賢明な選択(wise choices)と適切な選択(apt feelings)が、哲学と日常という両極端において表れるのである。私は、両方の種類の規範的な語りが何であるかを知りたい。

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道徳性と合理性の関係

私の提案はこのように進む。:道徳性から始めよう。私たちはその名辞を広い意味でも狭い意味でも理解することができる。広い意味では、道徳の問いはどのように生きるかである。狭い意味では、私たちはこう言ってもよいが、道徳性は道徳的感情(moral sentiments)に関わる。道徳的な誤りは、これらの感情の痛みのために避けられるべきものだ。こうした狭い意味での道徳性は、人生の狭い部分だが、しかしそれでも、もしかしたら、私たちが制限されるもののセットとして必要としているものである。

罪悪感や憤怒を感じることはそれ自体では道徳的判断をなすことではない。ある人は罪悪感を感じつつも、彼は誤ったことをしていないと考えることができる。その場合、彼は憤怒の感情が合理的だということが筋を通さない(makes no sense)と思っているのだ。狭い意味では道徳判断は、感情ではなく、どんな道徳的な感情が保持するのに合理的であるかについての判断なのである。私たちが考えているように、感情は適切であったりそうでなかったりすることがあり、道徳的な判断とは、いつ罪悪感や憤怒が適切であるのかという判断なのである。

  • 以上のように、本書では「道徳判断は、どんな感情が保持するのに合理的であるかについて判断である」という主張を支持している。この見解を論じるためには、合理性一般について議論せねばならない。

合理性とは、規範の受容の表出である

物事を合理的であると言うことは、それを何らかの方法で是認する(endorse)することである。

  • 「合理的である」という名辞は、私たちが行ったり信じるのに「意味の通じるもの」(what it makes sense)について語る場合、もしくは、ある状況における「賢い選択」について話す場合に、私たちの使う語である。
    • 「合理的である」という語は、す「べき」(ought)ことや、「最善のすべきこと」(the best thing to do)について語る場合にも用いられる。
  • 「合理的である」という語は様々な意味で用いられるが、私は以下のテストによって示されるものが共通する要素だと考える。
    • あるフレーズをある行為もしくは感情のどちらかに適用しつつ、もう片方の行為もしくは感情を否定すると、困惑を招いてしまう場合。それが合理性のテストとなる。
    • 【コメント】"another"が何なのかが上手く訳を取れていない。one test is that to apply one phrase to an action or feeling while denying another is to invite puzzlement.
    • 合理的であることは、ある種の直接的で好意的な是認をもたらす。そうした是認は、行為や感情を評価される人の視点からもたらされたものである。
    • 合理性にはより狭い意味もあるが、以上が本書で私の用いる意味である。
  • では、ある行為や感情が合理的であることとは何なのか。大雑把な私の解答はこうだ。
    • 何かを合理的であると呼ぶことは、それを許可する規範の受容の感情を表出することである。
    • 私は、そうした合理性の心的状態を、人間の生物的な適応の結果として本書で描こう。

私の分析は、非記述主義的・表出主義的・非認知主義的・自然主義的である

規範的な語りは自然の一部であるが、それは自然を記述する訳ではない。特に、何かを合理的または非合理的と呼ぶ人は、彼自身の心的状態を記述しているのではないのである;彼はそれを表出(express)しているのである。何かを合理的であると呼ぶことは、何らかの独特の性質をそのものに帰属させているのではない。--受容された規範によって許可されたという性質を帰属させているのでさえない。私の分析は、何かが合理的であるのがどんな状態であるかについてではない。私の分析は、誰かが物事を合理的であると判断することがどんな状態であるか、についてのものである。その名辞が表出する心的状態が何かを言うことによって、私たちはその名辞を説明する。こうした意味で、私の分析は表出主義的であり、かなり言いにくい方法で述べると、私はそれを規範-表出主義的分析と呼びたい。

私の分析は、狭い意味で非-認知主義的である。この分析によれば、あるものを合理的であると呼ぶことは、事実の問題を、真か偽であるように述べることではない。

  • しかしながら、以上の非認知主義的な分析は規範的言語を欠陥のあるものと見なさない。
    • むしろ、規範的な議論は大変事実的な議論と似ており、それなしでは済ますことができない。
    • さらに、事実的判断それ自体も、ある種の規範--信念のための規範に基づいている。
  • また、こうした分析は自然主義とも整合的あるべきだ。
    • 私たちが規範を見る方法は、規範的生活の最善の自然主義的説明と一致すべきで、こうした所でこそ、表出主義的説明が役立つのである。
  • ただし、こうした分析は非実質的なものであり、どんな内容が合理的であるかには踏み込まない。
    • しかし、こうした分析は規範的問いを実質的に追求する際にも役立ちうる。

実質的分析

  • 以上で述べてきた表出主義的見解では、何かを合理的と呼ぶことは、ある性質を対象に帰属させることではなく、心的状態を表出することである。
  • 一方で、一見すると記述的な分析の方がより良い説明に見えるかもしれない。
    • 記述的な分析では、ある人が何かを合理的と呼べば、その人は彼はそれを、何らかの性質をそれに帰属させるために記述していると考える。
    • 記述的な分析では、その後に彼の判断を真か偽か私たちは判断できる。
    • 表出主義的分析では、私たちはただ反応ができるだけである。
  • しかし、記述的分析では残ってしまう「合理的」という名辞のパズルを、表出主義は指摘できる。
    • そうしたパズルは、もし是認の表出の観点から分析すれば解消できるはずのものだ。

合理性についてのヒューム=ラムジー理論とは

  • たとえば、最も洗練された合理性の分析であるヒューム=ラムジー理論(the Hume-Ramsey theory)を取り上げてみよう。
    • この理論は、現在では経済学者や意思決定理論の間でオーソドックスであり、私たちはこの理論に実質的な分析を期待してもよいかもしれない。
    • この理論におけるヒューム的な要素とは、道具的合理性(instrumental rationality)が合理性の全てである、という考えである。
      • ここでの道具的合理性とは、所与として受容されている究極的な目的(ends)の追求における合理性である。
      • 究極的な目的の内容はそれ自体で合理的か非合理的かの評価をなされない。
    • ラムジー的要素*1]とは、選好と行為間のある種の形式的整合性(coherenece)として、合理性を解釈する考えである。
      • ここでの整合性の条件は、人の選好が順序付けを形成し、人は自分が最も選考するものを常に行う、というようなものである。
    • つまり、ヒューム=ラムジー理論では、公理のセットによって表現されることのできる方法で、選好の形式的な整合性のみを合理性は要求すると考えられる。
  • 本当に、ラムジーの公理は「合理性」という名辞に、十分な意味を与えられるのだろうか。
    • 私は与えられないと主張する。その理由はまさに、かつてMooreが「善」の「自然主義的」な様々な定義に対して攻撃を行ったのと、同種のものである。

ヒュームの見解に対する問題提起

  • ヒュームによれば、人が持つ内在的な選好がどんなものであれ、理性はその奴隷である。
    • このヒュームの古典的な見解には、控えめに言っても論争がある。
    • しかし、もしヒューム的テーゼがまさに「合理的」という語の意味に組み込まれていれば、その場合、全ての議論はある語の意味によって決定されることとなる。
    • もし「合理的」という語のその見解が本当なら、一体現在の論争が何についてのものであろうか?少し考えにくいのではないか。
  • そうではなく、人々は、「合理的」という語の実質的な内容について論争しているのである。
    • たとえば「功績(accomplishment)こそが合理的である」とGriffin(1986)が主張したような場合には、実質的な合理性の主張がなされていのである。
    • ヒュームが理解できない(uninteligible)と考えた方法で、これらの人々は「合理的である」という語を用いているのだ。
  • 合理性についての実質的な分析は、疑問が残りつつ同時に正しいという場合がある。
    • ある分析を反例によって反駁するためには、ある人がその分析を疑うだけでなく、言語的・論理的混乱無しにその分析と不整合な何かを受容するような場合が必要である。
  • そこで、オクタヴィアとカシウスのこんな一例を考えてみよう。
    • オクタヴィアは、理由が要請するものがその人自身の未来の幸福を考慮する(give weight)ことである、と考えている。
      • 彼女が考えていることは、未来に無関心な人においてでさえ、この要請はなされるだろうということだ。
      • ここで、彼女の考えが正しいかどうかには関わらず、もし彼女の考えが理解可能(intelligible)で、言語的にも論理的にも混乱のないものであるのなら、その場合、ヒューム的テーゼは意味についての主張として誤っていることとなる。
    • カシウスにとっては、未来の幸福は何の目的でもないと想像してみよう。ヒューム的テーゼによれば、彼が未来の幸福を全く考慮しないことは合理的である。
      • オクタヴィアによれば、カシウスは合理的に未来の幸福を考慮すべきである。
    • もしオクタヴィアの意見が理解可能であるなら、その場合、ヒューム的テーゼは意味についての主張として誤っていることになる。
  • こうした反例の中に、完全なものはない。いつでも、合理的として提案された見解が、本当に合理的であるか、という問いは問われうるのである。
    • むしろ、要点はこちらだ。
      • ある意見は理解可能(intelligible)である。
      • つまり、私たちはその人が主張していることを理解できるようである。
      • その場合、ある意見を理解可能として解釈する圧力が存在する。もしくは、理解可能性の現れを説明する圧力が少なくとも存在する。
  • 簡潔に言えば、ヒューム的テーゼは意味についての主張としては手際悪くしか機能しないのである。人が実際に何を求めているかに関わらず求める価値のあるものがあり、人がたとえ実際に求めていたとしても、求める価値のないものもある。このように人々は考えている。

道具的合理性

  • 次に、ヒューム的テーゼの残りの部分である、道具的合理性について考えてみよう。
    • 目的が合理的であるかを問うことは、ただ、合理性という語のレトリック的な使用であるとした上で、「合理的である」という語を手段についての語りに限定してみよう。
    • その場合、合理性は信念についての合理性となる。
      • つまり、どんな手段がどの目的に通じるか、についての信念のみが、合理的であるかどうか問われることになる。
    • ただ、道具的合理性は単なる手段-目的の信念以上のものである。
      • 道具的合理性のどんな説明も、主体間の推論の相互行為に対処しなければならない。
      • それは不確実性にも対処しなければならない。
    • これらの複雑性を捉えるためには、ラムジーの理論のような合理性についての見解が必要である。

ラムジーの理論

  • ラムジーは合理性をある種の形式的整合性として扱った。ラムジーの公理は信念の全くの論理的整合性以上のものを要請する。ラムジーの理論が要請するのは、人の選好が順序付け(ordering)を形成することである。
  • ラムジーの理論は「確かなもの原理」(sure thing principle)もまた要請する。それは、こんなふうに進む。:
    • ABCを将来可能な予見(prospect)、pを起こりうる何か-たとえば、コインが表を向くこと-とし、pはそれ自体ではある人が全く気にかけていないとする。
    • ここで、ある人がBよりもAを選好していると考えてみよう。この場合、ある人は、ふたつの混合予見(compound prospect)のうちのひとつである。つまり、
      混合予見「もしpであればB。他の場合は、Cである」を、混合予見「もしpであればA。他の場合はCである」よりも選好している。

ラムジーの理論のふたつの問題点

囚人のジレンマによって示される問題点

  • 標準的な囚人のジレンマを考えてみよう。それは、以下の図のように整理できる。
双子のもう一方が裏切る 双子のもう一方が黙秘する
あなたが裏切る あなた9年、双子9年 あなた自由、双子10年
あなたが黙秘する あなた10年、双子自由 あなた1年、双子1年
  • このジレンマにおける合理的な選択の種類には、以下が挙げられるだろう。

    • あなたが裏切るのが合理的であるという、ゲーム理論の標準的見解。
      • 双子のもう一方が何を選ぶかは、あなたの影響を越えているため。
    • あなたが黙秘するのが合理的であるという意見。
      • この意見に与する人々は、双子のもう一方が黙秘することをほのめかす。
      • この路線で考える人々によれば、あなた達の両方がお互いの目標を連帯的に挫折させる方法で行動することは、筋が通らない(cannot make sense)。
  • 囚人のジレンマでは、このように、実質的な合理性の考え方が対立しているのである。そのため、これは、ラムジーの理論が合理性をうまく説明しない一例であろう。

    • ここで、私のパズルは、これらのうちでどちらの側が正しいのか、ではなく、何が問題とされているかについてのものである。;黙秘するのが合理的であると考える人々は、黙秘がラムジーの公理のような公理を破ると、完璧に知っている。そのように考える人々は、その公理が合理性を誤って特徴づけるものだと考えているのである。彼らが名辞として用いる「合理的である」という語が意味するものは、「公理を満たす」ではありえない。そうでなければ、これらの人々はトリヴィアルに誤っていることになるであろう。彼らは、同じ「合理的である」という名辞によって、彼らの対向者とは何か違うものを意味しているのだろうか。その場合、実際には不一致は全くない。異なる意味で用いられているひとつの語があるだけである。しかしながら、議論にとって本当の重要性あるものがあるように見える。:仮定的にエゴイスト的目標を選ぶと、ふたつの立場は、何をすべきかについて不一致になるのである。

ロシアンルーレットによって示される問題点

  • 拳銃によって、自らに対するロシアンルーレットを強制される状況を考えてみよう。ひとつの弾が装弾数6のリボルバーに装填されている。シリンダーを思い切って回し、あなたは自分自身をまっすぐに(square)撃たねばならない。弾を取り除くために、あなたは最大でどのくらいなら払ってもよいだろうか(生き残った場合は一回払いで支払い、死ねば支払いは免除される)。
  • 次に、問題のもう一つのバージョンを考えてみよう。ひとつのリボルバーに4つの弾があるロシアンルーレットをせねばならない。3つの弾を残して、4つのうちひとつの弾を除くために、あなたが払うであろう最大額はいくらだろうか。先ほどよりも多いだろうか?少ないだろうか?
    • ほとんどの人は少ないと答える。しかし、標準的な意思決定理論は、それよりも多く払うと答える。実際の所、意思決定理論が私たちに伝えるのは、2つから0に弾を減らすときに払う額と同額を、3つから4つに減らす際に払うべきだということなのである。
    • 第二の状況というのは、結局のところ次の2段階のゲームをせねばならない状況のようなものなのである。:最初に、あなたは3つの弾でルーレットを行う。その後、もしあなたが生き延びたなら、あなたは2つの弾でルーレットをせねばならない。ただし、今度は両方の弾を支払いによって取り除くことができる。
      • 考えてみよう。以上を踏まえると、両方のバージョンにおいて、あなたが支払わなければ、あなたの自殺の機会は6回のうち4回である。もし支払えば、あなたの自殺の機会は、6回のうち3回である。ふたつのバージョンは等値なのである。
      • あなたはどの程度はらってもよいだろうか。ふたつの段階のあるバージョンでは、もしあなたが第一ラウンドで死ねば、生存した際にあなたが払おうとする額は重要ではない。だから次に来るあなたの問いは、第二ラウンドをどうあつかえばよいか、である。シリンダーに残るふたつの弾を取り除くのに、あなたは最大どの程度支払うだろうか。恐らく、ひとつの弾を取り除くよりも、ふたつの弾を取り除く方に、あなたは高い金額を支払うだろう。それゆえ、ふたつの「ひとつの段階バージョン」でも、1つの弾をゼロにするよりも多くの金額を、あなたは4つの弾を3つに減らす場合の方に、多くを支払うべきなのだ。論証はこんな風に進むのである。
  • これを受容する人もいれば、これを理解しつつ拒絶する人もいる。6回に1回の生命の危険を彼ら自身で取り除き安全を確保する方が、6回のうち3回の機会から6回のうち2回の機会に彼らの安全を改善するよりも、価値があるという主張に、この論証を拒絶する人は、固執しているのである。
    • 拒絶する人はこのように考えるのだろう。先の論証は不確かな原則(principle)に依拠している。先の論証は、両方の弾が取り除かれるのに支払う最大額は、その段階におけるリスクがどれほどかに依拠してはならないと想定している。その論証は、選択がそれ自身で全てに直面するか、または、別の段階がそれに至るか、ということにに依拠すべきでないと想定している。*2 もしその原則が反直観的な帰結をもたらすなら、原則はそれほど悪いこととなる。
  • こうした原則を受容する人々と拒絶する人々との間にある問題は何だろうか。その原則を拒絶する人は、「合理的である」という語によって、ラムジーの公理の言うことのようなものを意味することはできない。彼らは、その原則が公理のひとつであるとは知っているが、合理的な選択はそれを破る(violate)するものだと考えているのである。本当に対向者と支持者は、「合理的」という語によって異なることを意味しているのだろうか。その場合、本当の対立はここにはないことになる。実際に、実質的な対立がここにあるように見える:ふたつのサイドは、あるひとつの状況により注意をはらうべきか、もうひとつの状況に注意をはらうかのどちらかについて異なっているのである。

ラムジー理論の限界

  • より広い意味で、ラムジーの意思決定理論は合理性を整合性の一種として扱ってきた。しかし、この整合性は、狭い意味で構成された論理ではなく、ある人が最も望むものをまっすぐに選ぶことではない。
  • そこで、私たちが必要としているのは、道具的合理性を特徴づけるためのラムジーの公理ほど複雑な何かであろう。そのような特徴付けは論争の余地のあるものである。
    • こうした論争において立場を選ぶことは、単に、どの公理が満たされ、どの公理が侵害されるかを言う問題ではない。そこについて同意できる人々は、どの行為が道具的に合理的であるかについて、不一致でありうるのである。
    • 立場を選ぶことは、ある種の仮定的な是認によって構成されているように思われる:私たちは何らかの究極的な目的を選択し、その後に何をすべきかを決定するのである。
  • ラムジーの公理は実質的な合理性の見解として提出されていると、見なされるかもしれない。
    • 群(group)や秩序だった(well-ordering)ものを構成するものを数学者が規定するように、合理性という語は使われているのかもしれない。
    • その場合、一旦は合理性をめぐる議論の余地はなくなる。
  • しかし、その後で私の問うていることは、合理的という名辞が本当の論争において、合理性の本性について、意味しているものが何か、ということである。

完全な情報による分析

  • 哲学者の間でひろまった見解では、合理性は事実の完全な自覚とされている。ブラント(Brandt)はこの種の見解を精緻化している。

ブラントの合理性分析とは

  • ブラントが告げることは、「事実と論理による最大限の批判と訂正を耐え抜く行為や欲求、道徳的システムを表すため、合理的という名辞を先取する(pre-empt)」*3
    • ブラントの説明はこのように進む。
    • 最初に、私たちはある人が持つのに合理的であるような内在的欲求を特徴づける。
      • それらは、理想的に精彩な方法で、適切な回数、全ての関連する、科学的に利用可能な情報を、繰り返し表象した後で、持たれうるものである。
      • ブラントは、こうして事実を精彩に繰り返し表象することを認知的な心理療法(Cognitive psychotherapy)と呼んでいる。
    • 次に、私たちは、行為の合理性を、手段もしくはその「道具的合理性」として定義する。
      • もしある人が内在的価値を持ち、さらに、彼が全ての関連する科学的に利用可能な情報を「注意深く焦点を当てた状態、または、注意を等しく共有した状態で現在のものとして自覚する」*4場合、彼がその行為を行う意志がある。その場合そしてその場合のみ、ある行為は内在的欲求の達成のための手段として道具的に合理的である
      • その場合、その行為者が持つのに合理的であるような内在的欲求の達成のための手段として、道具的に合理的である場合、そしてその場合のみ、ある行為は完全に合理的である。

ブラントの合理性分析についての問題提起

ブラントの合理性分析は、アドバイス可能性の分析でしかない

  • ブラントのような「完全な情報」のどんな説明に対してもあてはまるひとつの問題は、合理性は、日常的な意味では、完全な情報を用いることから構成されるのではなく、限られた情報の最善の利用から構成される、という点である。
    • 全ての関連する事実の完全な自覚が示唆するのは合理性ではなく、もっと「アドバイス可能性」(advisablitiy)のような何かである。
    • 合理性は、人の持つ情報の利用についての問題である一方、アドバイスは、アドバイスされる人が欠く情報に左右される。
    • 具体例:地図やコンパス無しに森で迷った場合。
      • 完全な情報があれば、最短で最も容易な未知を取るだろうが、私にはそんな情報はない。ここで私にとって合理的なことは、道の無い森を抜け出すための標準的な戦略のひとつを追求することである。木を見てまっすぐな線を見定めて歩いたり、丘を下り続けるなど。
      • たとえ、完全な情報があれば行かなかったであろう道を歩むことになるであろう点に私が自信を持っていたとしても、そうした戦略の中には合理的なものもある。
      • また、もし私が思いがけず森の中で誰かに出会ったら、私の望むであろうものは、アドバイスである。
      • 私は、私にとって行うのに合理的であろうことを教えてほしいとは望まないだろう。私は既に、なすのに合理的なことは、道の行き先を尋ねることだということを知っているからだ。
      • 森の専門家は、その時に私にアドバイス可能であるものを教えることができる。彼は、森から抜け出るのに最短の道を教えてくれるだろう。
      • その時、彼は完全な情報に基づきアドバイスをしているのである。
      • もちろん、一度私が彼のアドバイスを受け取れば、彼の言うことをなすことが私にとって合理的なことになる。しかし、こうなるのは、アドバイスをもらってからである。
    • この場合、合理的なものとは、ある行為者が完全な情報があればしたであろうことではないのである。
  • 私が私の選択に影響を与える全てを知っているという特別な状況において、私にとって行うのが合理的であることは、私にとって行うことをアドバイスすべきことである。合理性がこのような仕方でアドバイス可能性と関係していると私たちは結論してもよいだろう。
    • そうでなければ、完全な情報分析と合理性はふたつの異なるものであり、完全な情報分析はアドバイス可能性にふさわしいものである。
  • 以上のように考えれば、ブラントの合理性分析が私たちの日常的な合理性を十分に説明しているかどうかには、疑問の余地がある。
    • ブラント自身は、彼の合理性分析を日常の合理性の単なる分析ではなく、その改善であると述べている。
    • しかし、彼の合理性分析には、日常の合理性において保存する価値のある何かが見過ごされているのではないだろうか。

認知的心理療法にも疑問点がたくさん

  • 次に、ブラントの合理性を基礎づけるもうひとつの要素である、認知的心理療法を考えてみよう。
    • 認知的心理療法とは、先述したとおり、以下のようなものであった。
      • 最初に、私たちはある人が持つのに合理的であるような内在的欲求を特徴づける。
      • それらは、理想的に精彩な方法で、適切な回数、全ての関連する、科学的に利用可能な情報を、繰り返し表象した後で、持たれうるものである。
      • ブラントは、こうして事実を精彩に繰り返し表象することを認知的心理療法(Cognitive psychotherapy)と呼んでいる。
    • ブラントの説明によれば、内在的欲求が合理的であるかどうかは、それが認知的心理療法によって消し去られるかどうかの問題である。
      • 幼少時代の早い内に深く染みついたために認知的心理療法によって消し去ることのできないような、どんな内在的価値も、ブラントの定義では合理的であるというように見なされる。これが彼の結論である*5
    • さらに、ブラントは合理性という名辞の持つ必然的な推奨(recommend)の力を重視しており、彼の著書の第八章全体を割いてまで説明している。認知的心理療法に基づく合理性分析は、そうした私たちの日常的な合理性理解を説明することができる、とブラントは主張する。
  • しかし、以下で挙げるように、ブラントにとって不都合な具体例を数多く挙げることができる。私たちはこうした反例の持つシステマティックな重要性をより重視すべきでないだろうか。
    • ブラントに不利な具体例1:細菌を自分の手から消滅させることに執拗な拘りを見せ、毎時間ごとに何度も手を洗い続ける人(これは、ブラント自身の挙げた例である)。
      • そうした手洗いに科学的には意味がないと知った場合でも、この人は細菌の排除にこだわり続ける。
    • ブラントに不利な具体例2: 「理想的に精彩な方法で、適切な回数、全ての関連する、科学的に利用可能な情報」を得ようとするあまり、ノイローゼに陥ったり、他人が何を考えているかを気にしすぎて他人と食事を取れなくなってしまう場合。
      • 果たしてこうして結果的に孤独に陥るケースでも、ブラントの合理性分析は推奨の力を保持しているのだろうか。
    • ブラントに不利な具体例3: 賄賂を受け取らないと心に決めた公務員
      • その正直な公務員は、実は心のなかで、賄賂の受け取りを想像した場合の耐え難い誘惑を怖れている場合。全ての関連する事実の表象は、彼に賄賂への誘惑を引き起こし、賄賂を受け取るよう気を変えさせるとしてみよう。
      • 果たして、この場合に、賄賂を受領しないことが正直な公務員にとって不合理だといえるのだろうか。少なくとも彼は決してそんなふうに考えないはずだ。
    • ブラントに不利な具体例4: 他人の境遇を考えないことではじめて幸福を実感する利己主義者。
      • 完全な情報は、彼に退屈な自己奉仕の必要性を認識させてしまう。この場合、ブラントの説く合理性分析は、果たして彼に対する推奨の力を保持したままなのだろうか。
  • ブラントは自らの合理性の分析が、私たちの求める合理性概念の全てを説明していると主張しているのではない。彼は、他によりよい選択肢がないと主張しているのである。
    • そのため、私の述べてきた具体例は厳密な意味で彼を論駁しているのではない。
    • これらは、私たちがより上手くやるよう望んでもよいはずの観点を私は提示しているだけである。

ブラントによる合理性分析に欠如したもの

  • 結論
    • ブラントによる合理性分析が見落としていたものとは、先述した具体例のように、「ある人が完全な事実に基づかずに行為に関する判断を行うケース」である。それらはつまり、ある人が、自分自身を、精彩な認識を合理的な欲求に変換するのに適さない人であると考え、さらに、自分を奇妙なことに導くであろうと彼の考える事実についてあれこれ考えることを避ける、という場合である。
    • 私の見立てでは、「ある人が、繰り返しの事実との直面を生き延びないと考える目的の体系を是認する」というケースに注目してこそ、より適切な合理性分析は可能になるはずだ。
    • 以降では、こうした是認の要素を重視した合理性分析を検討していこう。

これらの例は共通した構造を持っている。しばしば私たちの想定していることは、私たちがまっすぐに事実を獲得し明晰にはっきりとそれらを理解する場合のみ、私たちが合理的な欲求の形成者である、ということである。私の与えてきた例は、ある人が、自分自身を、精彩な認識を合理的な欲求に変換するのに適さない人であると考え、彼が自分を奇妙なことに導くであろうと事実についてあれこれ考えることを避ける、というものである。ブラントのような完全な情報分析では、こうした信頼性の語りは、実質を持っていない。:ブラントによれば、私たちがはっきりとした認識を合理的な要求に変換する信頼のできる人であるということは、分析的であるーつまり、「合理的」という語の意味するものの観点からのみ真である。ブラント自身は、どんな通常の意味の「合理的」に対しても、この主張を行っていない。というのは、彼は日常的な用法においては、その名辞が明晰な意味を何も持っていないと考えたためである。しかしながら、全ての説明において、ブラントのような説明の見失っている要素がある:賛成者(protagonist)は、はっきりとした、繰り返しの事実との直面を生き延びないと考える目的の体系を是認する。その意味では、そのような直面を経験したとしても、彼はより合理的であることがないと彼は考えている。続く議論では、完全な情報による説明の残していた、是認の要素を追求したい。もし私が正しければ、用語の特別に規範的な側面はその要素にあるだろう。

*1: Gibbardの説明はよくわからなかった。そこで、Blackburn先生の哲学辞書のラムジーテストの項目も確認した。「A→Cという条件文の受容可能性や主張可能性、真理の度合いを評価するために、ラムジーテスト:F. P. ラムジーによって提案されたテスト。このテストによれば、あなたのすべきことは以下である:(a)あなたの現在の信念の体系を特徴づける、命題の確率(probability)のセットを選ぶ。そして、それに、Aの(確実性)の1という確率を足す。;(b)必要とされるどんな方法でも、そして最も自然で保守的な方法で、この変化を適用させる。;(c)帰結するものがCの高い確率を含むかどうかを見る」(2005 2nd, p. 306)。まだよくわからない。

*2:ここは訳が上手く取れなかった。原文"It should not depend on whether the choice is faced all by itself or whether another stage leads up to it"(p. 16)

*3:Gibbardによる以下の部分の引用。Brandt, Richard B. 1979. A Theory of the Good and the Right. Oxford: Clarendon Press. ことを彼が行うということである。

*4:ここもBrandt(1979, 11)からの引用

*5:Brandt(1979: 113)を見よ。