ジャーナリズム関連ななめ読み

奥村倫弘(2017)『ネコがメディアを支配する:ネットニュースに未来はあるのか』中央公論新社

  • ネコ動画=PV至上主義の行きつく先
    • PVは単価が低い。利潤を追求するため、記事を大量に生産しPVを稼ぐ薄利多売な戦略が取られる。
    • 「「ネコ動画」は身近にネコがいれば、誰でも発信できるうえ、しかも現実としてPVがたくさん稼げる驚異のコンテンツなのです。そうしたコンテンツが勢力を増す一方、手に入れるために多くの労力や費用がかかり、発信に万全のケアが必要、かつ社会に伝える意義のあるコンテンツである「ニュース」、そしてそれを支えるジャーナリズムの価値が揺らいでいる印象が見受けられるようにもなりました。その状況を言い表したのが本書のメインタイトル、『ネコがメディアを支配する』です。」(p.6)
    • 著者はPV至上主義の失敗により、既存メディアはその本質である「きちんと話を聞き、分かりやすく伝える」(p.9)ということが重要になるだろうという仮説を示す。
  • 伝統的メディアのニュースと、SNSの投稿やネットメディアの違い
    • 伝統的メディアのニュースの本質は5W1H。「いつ、どこで、だれが、何を、どうして、どのように」
    • SNSの投稿では、5W1Hの要素は不可欠ではない。感情を揺さぶることが重視される。
      • 例)SNSでは事故現場の画像を投稿するだけでOK。記事では、いつどこでだれが何をの4Wを最低限埋める。もし大事故なら、のこりの1W1Hのなぜ、どうしても記者は取材する。
    • SNSの投稿と伝統的メディアのニュースの違いには、情報の断片でよいか、情報の総体が必要かという違いもある。
      • 例)SNSでは「渋谷駅で火事なう」でOK。ニュースではどんな原因の火事か、鉄道の運行にどれくらい影響を与えたか、等、警察、JR、消防の情報を組み合わせることが求められる。
        • この情報を正しく組み合わせるのには多大な労力と、知識が必要になる。
    • ネットメディアと伝統的メディアのニュースには、情報の粘りに違いがある。
      • 粘りとは、簡単に言えばどれくらい長期的な取材が許されているかということ。例えば、週刊誌では日刊紙よりも粘りのある取材がやりやすい。なぜなら、週刊誌の締切が週次であることに対し、日刊紙は日次で取材結果を報告しなければならないためである。このように、媒体の粘りは締切までの長さに左右される。
      • ネットメディアにはには物理的な締切がない。そのため、とにかく早く情報を流そうとしがち。
    • ネットメディアと伝統的メディアのニュースには、全国的な取材網の有無が違う。
      • 賛否はあるが、記者クラブを持っているかどうかも違う。
        • ネットメディアには、まだ取材先からスクープを取れるほどのブランドもない。
  • 著者の考える伝統的なメディアに残された役割は以下のようにまとめられるだろう。
    • 権力は腐敗する。それを防止するためには、監視する人が必要だ。そこに伝統的なメディアの役割がまだ残るはずだ。権力を監視する人自体は、新聞記者でなくともネットでも雑誌でも誰でもいい。しかし、行政や議会等の専門的なテーマを継続的に報じるためには、資金の問題に加え、多くのことを勉強する必要がある。そうした人材を確保することができる候補は、今のところ新聞社しかない。そのため、企業の利益の観点からではなく、公益の観点から、こうした調査報道に携わる人材を確保できる仕組みを用意することが重要だろう。
      • ただし、専門的なテーマのすべてをそもそも頻繁に転勤のある記者がカバーできるのかという問題は残る。だからこそ、理想としては新聞だけでなくネットメディアや市民の活動も求められる。
  • ネコ動画に戦いを挑んではならない
    • 伝統的メディアのニュースは、PV至上主義がもたらすゴミのような情報とは全く違う価値を持っており、そもそも戦う土俵が違う。魅力という観点からすれば、ニュースはネコにかなわない。だから、ニュースはPV至上主義を土俵として選んではだめだ。このことを考えなから、新しいニュースのあり方を模索していかないといけない。
  • どうやって伝統的なメディアのニュースを収益化するか。
    • 速報で収益を得るのはNHKがあるため難しい。
    • 「そこで現実を見てみれば、伝統メディア各社は、キュレーションアプリやポータルサイトを通じて無料記事を配信し、PVに応じて得られる広告によって売上を立てるビジネスモデルを続けつつ、少なくとも自分たちでしかかけない、価値ある記事ほどネット上の有料版でしか読めないようなビジネスに挑戦しています」(p.197)
  • 伝統的なメディアには原点回帰が必要。
    • ジャーナリズムの原則(コヴァッチ・ローゼンスティールからの引用)
      • 原則1 ジャーナリズムの第一の責務は真実である。
      • 原則2 ジャーナリズムは第一に市民に忠実であるべきである。
      • 原則3 ジャーナリズムの真髄は検証の規律である。
      • 原則4 ジャーナリズムに従事する者はその対象からの独立を維持しなければならない。
      • 原則5 ジャーナリズムは独立した権力監視役として機能すべきである。
      • 原則6 ジャーナリズムは大衆の批判および譲歩を討論する公開の場を提供しなければならない。
      • 原則7 ジャーナリズムは重大なことを、おもしろく、関連性のあるものとするよう、努力しなければならない。
      • 原則8 ジャーナリズムはニュースの包括性および均衡を保たなくてはならない。
      • 原則9 ジャーナリズムに従事する者は、自らの良心を実践する事を許されるべきである。
      • 原則10 市民もまたニュースにたいして権利と義務がある。
        • 最後の原則10は瀬川至朗の本に従ったとのこと。新しく2007年に追加された。
    • 混迷の時代だからこそこうした原則に立ち返ることが大事(大意)
  • 生産サイド、流通サイドという言葉は、本文を通して用いられていた。生産サイドは記事の書き手。流通サイドはヤフーニュースのトップ等、ニュースを買い付け、表示させる場。

畑尾一知(2018)『新聞社崩壊』新潮社

新聞社崩壊 (新潮新書)

新聞社崩壊 (新潮新書)

  • あまりちゃんと読んでいない。北海タイムス社の倒産の話は読んだ。危機感を欠いたまま倒産に至る様子がなにか記憶に残った。
  • 新聞社復活のための提言はそれほど目新しくない。いくつかの施策の中で、「値下げ」が第一にあるがおそらく新聞社としてそれは難しいのだろう。そして値下げにより部数が増え、新聞社の利益につながるというのが主張だとすれば、そもそも値下げして部数が増えるという仮説が少し疑わしい。

井川充雄(2018)「ジャーナリズム史--日本型報道規範の形成史」大井眞二、田村紀雄、鈴木雄雅(編)『現代ジャーナリズムを学ぶ人のために』第2版、世界思想社

現代ジャーナリズムを学ぶ人のために〔第2版〕

現代ジャーナリズムを学ぶ人のために〔第2版〕

  • 日本の報道の「公正・中立」というスタンスが特殊なものであり、それが歴史的にどのような経緯で形成されたかを探るというもの。
  • なんか違うな、という感触。フォローされる形成史は戦中まで。戦争へと向かう流れの中で、反戦的な風潮の新聞に対する不買運動が生じたり、国家による統制が進んだ。その結果、権力に批判するのではなく迎合するジャーナリズムが生き残った。というのが論旨。
    • 公正・中立という日本のマスコミのスタンスと、政府への批判を抑制する姿勢という2点では、全く言っていることが異なる。だから、公正・中立の原点を戦前に求めるのはなにか違う気がする。企業の利潤追求の結果こうなった、ということも著者は言っているようだが、新聞社の抜いた抜かれたの世界では決して反権力的な報道が抑制されるわけではないようにも思えるので、よくわからない。
  • これの分析の方が近そうだ。
    • 「「客観性」とは、気前のいい広告主の豊富な資金をバックに発行部数の増加を目指した、人に不快感を与えない慎重な報道がなされていた時代の遺物だ。しかし、それらはどれも過去の話である。」
    • 雑に要約:新聞のような媒体がもともと党の機関紙として生じてきた経緯から考えると、メディアにおける客観性とは決して普遍的な概念ではない。米国において報道の客観性が重視されるようになったきっかけは、南北戦争後に全米規模の消費市場が誕生し、全国をターゲットにした広告の需要が高まったからだった。広告主たちの需要のもと、メディアは発行部数の拡大を主目的に置き、大多数の人々に受け入れられる報道姿勢、つまり客観性を重視するようになった。
    • 「「広告収入に支えられた報道の黄金時代に戻ろうとするジャーナリスト」は、「高卒労働者が終身雇用の職を得てミドルクラスの暮らしを享受できた時代に戻りたがる中西部の工場労働者」と、不気味な類似性がある。いずれの黄金時代も、その当時特有の経済・政治的背景があったからこそ始まったものだ。それらはすでに終わっており、再現は不可能である。」