Schroeder(2010)による「高階の態度説」批判を精読するスレ part1

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

1 名前:名無しさん 2016/03/05(土) id:chamk
Schroeder(2010)における、Blackburnの高階の態度説(HOA)に対する批判の部分を抄訳してみるスレ。
該当部分は第六章「フレーゲ・ギーチ問題、1973-88」六節「高階の態度説説明の問題」(pp. 118-122)。
この節はB. Hale(1993)とM. van Roojen(1996)の批判の教科書的な解説がメインの内容だが、彼自身が認めるように決してオリジナルの批判をそのままパラフレーズするだけの単純な紹介を行っている訳ではない。むしろ、Schroederは彼なりに批判を再解釈・再構成した上で、オリジナルよりも厳密な形でHOA説を反駁している(しようとしている)。

HOA説の評価[ここだけ1つ前の節]

[P->Q] = DIS([P]&~[Q])
  • このレシピは合成性制約を満たすのであるのでよいレシピである。
  • 残る問題は、なぜモーダス・ポネンス(MP)が矛盾性と推論認可性質(inference-licensing property)を持つかをこのレシピが説明可能か、という点である。

幸運なことに、ブラックバーンはHOA説を特に推論認可性質を満たすように作った。表出主義者の説明では、道徳的MP論証の前提を受容すると同時にその結論を受容しない人は、前から2つ目までの否認の状態にありながら、3番目の状態にいない人である。:つまり、DIS(being friendly), DIS(DIS(being friendly)&~DIS(being friendly to strangers)),DIS(being friendly to strangers)[のうちの二つ目までを彼女は許容し、3番目を拒否している]。しかし、彼女は1番目の状態にありながら3番目にはないので、彼女はDIS(being friendly)&~DIS(being friendly to strangers)という状態にあるということになる。そして、それは彼女がまさに否認している状態じゃないか! それゆえ、この論証の前提を受容しながらもその結論を受容しない人は不合理であるとブラックバーンは結論するのである。--それは、あなた自身が一度「そうした心的状態にあること」を否定した心的状態にあなたがいる、ということに関わるのである。それはまさに、あなたが前提のどれかひとつをあきらめない限りにおいて、あなたがその結論を受容することに合理的にコミットしている、という意味である。

さて、不運なことに、ブラックバーンの説明がどのように矛盾の性質を説明するかは先の推論認可的性質ほど明らかではない。結局のところ、それが見せるのは、論証の前提を受容し同時に結論を受容しないことに、何か不合理なものがあることを示すだけである。しかし、ブラックバーンの理論が適用される限り、恐らく論証の結論を受容することと否定することの両方において、たぶん不合理なものは何もない。Blackburn(1984)では、条件文の意味のレシピしか、与えられていないので--そして、"not"という語の意味については、全く文の意味のレシピを与えていないので--私たちはこの問い[矛盾の性質]を十分に評価することができない。ただ、まだ、矛盾の性質を説明することのできる別の種類のHOA説がある。その[P→Q]のための一般的なレシピは、[Q]をインプットとして考えた場合に、私たちが[~Q]のためのレシピを既に持っていることを想定している。しかし、そのように想定することによって、そうしたレシピを私たちは手にしていると想定すれば、[P->Q]のためのレシピは次のようなものだろう。:

[P->Q]=DIS([P]&[~Q])

前提を受容し結論を否定する人は以下の3つの状態にいる、という根拠のもと、この[バージョンのHOA]説は矛盾の性質を説明することができる。:[P], DIS([P]&[~Q]),それから[~Q]の3つ。しかし、彼女は第一の状態と第三の状態にいるために、第二の状態にいることによって、彼女はまさに否定する状態にいる、ということになる。だから、これら3つすべての状態にいるということには、何か不合理なことが残るようだ。それゆえ、私たちは矛盾の性質の説明を得ることができる。 このHOA説は矛盾の性質の説明についてはより上手く機能するが、推論認可的性質の説明ではそれほど上手く説明を行えない。この理論が適用される限りでは、なぜ前提を受容することが、単に結論を否定しないだけでなく、実際に論証の結論を受容することにあなたにコミットさせるのか、明確ではない。ただ、まだ、HOA説の説明のための資源は使い尽くされていない。;ここまでで考察されたHOA説の両方を結合し、条件文は二つの否認の状態を表出するのだと--それぞれが、もうひとつの理論によって仮定されているもの--と、言うことができるかもしれない。その場合、私たちは矛盾の性質と推論認可的性質の両方を説明することが可能かもしれない。

イントロダクション

  • まだこの理論における矛盾の性質と推論認可的性質の両方における「合理性」の説明には違和感が残る人がいるかもしれない。
    • なぜなら、この「不合理性」とは、あなたが否認することを行うという特定の種類の不合理性だからである。
    • これはちょうど、「うそをつくことが誤っている」と思うと同時に嘘をつく、というようなものである。
    • この後者の具体的な事例が必然的に不合理であるかどうかはあまり明確ではないため、前者にも疑問の余地は残っている。
  • また、心的状態によって条件文を説明しようとするHOAでは、もしこの推論を行う人が心変わりをすれば、その推論における矛盾が許容され推論認可的性質が侵されてしまう、という危険性があるのではないか。
  • 私はこれらがよい疑問だと思うが、以下で見て行くような、2, 3のより重要な問題がHOAには残っている。

Haleによる批判

第三節で確認したように、条件文のためのよい意味論は、以下に続くすべての文について機能する必要がある。

MM もし友好的であることが誤っているなら、その場合、見知らぬ人に友好的であることは誤っている。
MD もし友好的であることが誤っているのなら、その場合、私の両親は私に嘘をついた。
DM もし聖書が友好的にならないようにと言うのなら、その場合、友好的であることは誤りである。
DD もし聖書が友好的でないようにと言うのなら、その場合、私の両親は私に嘘をついた。
  • Blackburnの説明は心的状態によるものなので、Dは欲求的ではない心的状態することによって、これらすべてに対応することがひとまずは可能。

    しかし、代わりに、ブラックバーンの説明では私たちに何か別のものを伝える。ブラックバーンの説明によれば、「もし聖書が友好的でないようにと言うのなら、その場合、私の両親は私に嘘をついた」と考えることは、ちょうどある心的状態についての否認を行うことでしかない。これは、あらゆる種類のHOA説に対して一般的な問題である。
    →この説明では、日常的で記述的な複合文まで、欲求的態度の表出であると考えなければならなくなる。これは、導くにはとても強い結論であるように思われる。

続く。